※原文摘自 “大野一雄舞踏譜 — 御殿、空を飛ぶ。" 頁40─43
(思潮社 : 1998)
尋求情感的泉源
一、這山巒是我們的身體
環繞著死海的山巒,明明覺得這種地方生物應該不易生存,然而卻有遍佈全山如「鼬鼠」般的野獸,在太陽直射的山的表面四處奔馳令人驚訝。他們在如同用「鹽鹵」凝固的紅褐色山表上挖洞棲息,吃的是山脈原本還在海底時所蘊藏的微生物,換言之,也可認為他們是以山為食來生存的。對他們而言山就是全部,就像在母親的胎內,以母親的肚子為食物而存活。岩鹽上所積存的雨水扮演著「水池」的角色,因為灼熱的太陽會使水份蒸發出來,這不正是支撐起他們的生命嗎?用身體靜靜承受夜晚冰冷的空氣,聚集在邊邊角角處吸吮水滴的野獸姿態。圓圓的雙眼加上長長的毛髮,彷彿一起決定好似的同時開始汲取。就像是母親的「胸部」。不知不覺間傳來一陣親切感。整個山間都在進行沉默的大合唱。山巒為你們所擁有,山巒是你們的身體。我們拜訪的時候是乾旱期,雖是草木不生的的荒地,但對他們而言則是「伊甸園」。在這樣的環境中擁有最大的自由,只要一出現未知的事物,全身的能量絕對會因好奇心的驅使而可集中轉到此處。像在地平線的盡頭、又像在世界的中心一般非常地不可思議。在他們馳騁於我裡面之前,我和他們就已親近了起來。儘管是荒涼的山表然一切的一切都很完備。
二、回到現實世界的神話
自1929年,在帝國劇場看到西班牙女舞蹈家La Argentina(Antonia Mercé 1890-1936)以來,死亡的框架就下降、打開了,使我得以和她一起同住。能有這樣的聯繫,多虧了有畫出宇宙空間的畫家中西夏之先生的作品,非常感謝他。我在1976年,先生的個展出口附近展示的一幅畫中看見Argentina的倩影,不禁佇立在和她再度相會的情境之中。先生他完全不了解Argentina,也未曾觀賞過她的舞踏表演。以弧線包圍住的宇宙空間裡懸浮著的空中鞦韆。那是宇宙的休息站,也如同是苦難的場所。雖不太能夠好好說明,不過從圓錐形的鞦韆側面開始,向外側延伸出像是尾巴、流星一般的線,末端總覺得像是貓咪的某個東西似的它彈射了出去。只是單純的尾巴嗎?我也感受到了如宇宙星雲的磁場。那個末梢雖然只是一個點,卻是一個能在其中天真無心的遊戲場。我時常與貓咪玩耍。抓著牠的尾巴又放開來。貓兒也會陪我嬉戲,像是回應我一般。這也是個可以隨意遊玩的愛情的接觸點。若用指尖輕輕撫摸時,牠會突然發出「呼嚕」般激烈驚人的聲音。雖然不會認為是在生氣,但對貓咪而言那個末梢是某種極限也說不定。我想可能是那次為了自己的方便替牠做了墮胎手術,因而發生了一般貓咪不會有的身體變化。這可以說是上天的安排嗎?甚至我會有像是觸碰到生命的源頭這般的想法。雖然話題朝著意料之外的方向進展。但我現在更加確信,Argentina的舞蹈是肩負了天地創造的舞蹈之一。做為臣屬於天之人,獲得不少藝術家們的援助,一再地鑽研直至被認為是貪婪的程度。她奉獻身心、鞠躬盡瘁,到了46歲就驟逝。在巴黎郊外紐爾的墓碑上銘刻著「為藝術而生為藝術而亡」。滿是悲傷令人窒息的美麗中,給予了世界深深地感動。藉由肩負起創造天地一部分的任務,神話因而回到了現實世界。
三、誕生的能量及其結構
以生命誕生為目標,無數的精子為了與卵子結合,一心一意往彼岸前進。逆流而上的精子,只能說它們真的是瘋了。當精子與卵子結合的瞬間,受精的卵子獲得了生命激烈地自轉起來。宇宙星雲的星星誕生,莫非這是星星的自轉?包括吸附在卵子上的精子,這些做為連結橋樑的無數精子變的怎麼樣了呢?回想起一副寫著“塵遊宇宙”的掛軸。那是深深銘刻在心上無法忘懷的一句話。在母親的胎內形成的生命,為了誕生出來後能夠獨立,要累積起所有必需的經驗。正當不自覺地這麼想著時,我看見受精卵子的自轉。看見此驗證想到這就如同我自身,不禁落下了淚滴。出生時的喊叫。歡喜、悲傷、不幸以及種種,既相反又交錯地重合。在母親成為的生命、在步向死亡的過程中培育生命,在體會生與死的過程中生命誕生。建立出生命的橋梁之後的精子,不論怎麼樣都無法撇開淘汰這字眼。 該怎麼去理解像是在誕生以前,生命成立之前就發生過般的事實才好?在無意識中刻畫在生命裡的宇宙記憶。我偷偷地在想,莫非是那促使人類成立的重要角色,不知不覺中開始覺得人類生命的原點就是情感的原點。沒錯,那事實就是人類為了生存絕對必須確立情感的原點。很沉重吧?很痛苦吧?切身體驗到生命的形成是如此珍貴這件事實。「無停歇的傾洩下天上的碎片,是巨岩的亦或是星星的?就算現在要跑也只是徒勞了」。站著不動嗎?已經不知道自己是不是蜷縮著的,那時的景像彷彿烙印在腦海無法忘懷(剛停戰沒多久做的白日夢)。那顆巨岩撞擊大地,夜以繼日地敲打宇宙本身,也打動了我。多虧如此才有現在的我存在。人們流的淚水和天上的那些是來自相同的能量吧。我想流淚的人是從天上的碎片中誕生的。那是看見花朵就會覺得美麗的一種脫胎換骨的能量。
生命誕生的能量。
宇宙形成的能量。
與這些能量相同,那些結構不也是這樣的嗎?
舞踏是來自母親的胎內,如同生命的誕生亦是從腹裡出生。那股能量、那結構,與之前的記錄不能不是相同的,所以我覺得舞踏的場地就是在母親的胎內、在宇宙的腹部裡。
四、胎內的早餐(吃飯囉)
與太陽升起一同閃耀的早餐。在母親的腹部裡吃早餐是要怎麼來開始呢?我發出了聲音,那和母親的聲音有些相似。或許是因為我與母親藉由導管組織相連而合一的關係,所以才會那麼覺得。桌子又是如何呢?一片靜寂中觸摸桌子時,不正宛如觸碰到母親的生命一般?「吃飯了喔」。熱氣騰騰的味噌湯。一頓映照出宇宙的子宮內部恭恭敬敬的早餐。精神抖擻地到餐桌旁的自己仍然是一無所知,懷抱著與此相對難以負荷的問題,不,應該是說雙手懷抱著無法控制漸漸擴大的生命,甚至連身軀姿態都因此傾斜了起來。(平常生活中也是這樣)。母親的吃與我的吃是相連著的。無數的子孫們沉浮在閃耀的波浪間(浪頭)。大家都靠向餐桌了卻是一種平靜下來的情緒。手放在餐桌上。味噌湯的熱氣升起但沒有要動筷的跡象。放在餐桌上的手與升起的熱氣兩者格外合得來。受精的卵子(胚胎)如同親密地接觸般,著床在子宮內壁,未長成的神經和血管樹立在血海中,他努力地擺動著小小的身軀。彷彿是幫浦一樣,咕嚕咕嚕。宇宙的節奏如同天上樂音陣陣傳來。你問他是食用什麼來生存?是靠愛的食糧啊。是那雙小小的手讓我理解到這點。那像是在說「看看我這雙小手」。不知從哪裡聽見「是那長長的導管呀,製造出這兩人的喲」。交疊雙手、放開雙手,在這樣的過程中,能發展出智慧並體會到關懷。偏差或者遠離四週也能成為一種宇宙法則的體驗。我想這是宇宙記憶中最為重要的事。是溫暖的?冰冷的?喜悅的?悲傷的?即使是死亡也與生命並存著。在子宮裡面下著雨的運動會。渾身沾滿泥巴奔跑、跌倒,再度爬起,我想就如同嶄新的生命對一切狀況都能獨立應對,我們是擁有那樣的可能性並且由此誕生出來。
感情の源泉を求めて
一、この山並みは私たちの身体だ
死海をとりまく山並み、こんなところには生きものなんかとても棲めないと思ったのに、全山いたるところに「いたち」のようなけものが、太陽の直射する山肌を馳けめぐっていたには驚いた。赤茶けた「ニガリ」で固められたような山肌に穴を掘って棲み、かつて海底であった時に蓄積された微生物を喰べ、言って見れば山を喰べて生きていたのだと考えられるのでした。彼等にとって山はすべてであり、母なる胎であり、母なる胎を食物として生きておったのです。岩塩の上に貯えられた雨水が「プール」の役割をし、焼けつくような太陽が水分を立昇らせ、彼等の命を支えておったのでないかと思っています。夜間の冷たい空気をじいっとして身体で受け止め、端末に集った水滴を吸うけものたちの姿。目はまん丸く髪をはやし、時間をきめたように一斉に吸いはじめる。まるで母親の「オッパイ」です。親近感がどちらからともなく伝わってくる。全山を挙げての沈黙の大合唱。山並みはお前たちのものだ。山並みはお前たちの身体だ。私たちが訪ねた時は乾期であり、草木一本生えていない荒地そのものでしたが、彼等にとっては「エデソの園」だったのです。このような環境の中で最大の自由を獲得し、未知なるものに対し、その好奇心からか全エネルギーを集中してこちらを振向いていたに違いありません。地の果てのようでもあるし、世界の中心でもあるような不思議な想いにかられるのでした。彼等は私の内部を馳けめぐるまでに親しくなったのでした。荒原たる山肌なのに何から何まで整っていた。
二、現実の世界に立ち戻った神話
一九二九年、帝国劇場で観たスペイソの舞姫ラ・アルへソチーナ(アソトニア・メルセ 一八九〇─一九三六年)以来、死の枠にまで下降し共に住んでおります。このようなつながりは、宇宙空間に画いた画家中西夏之氏の絵によるお蔭げと感謝しております。私は一九七六年、氏の個展で出口近くに掲げられた一枚の絵の中にアルへソチーナの姿を見、アルへソチーナに再会した想いの中で立ちつくしてしまったのでした。氏はアルへソチーナを全く知らなかったし、その舞踏を見ておらなかったのです。弧に取り囲まれた宇宙空間に浮んでいたのは空中ブランコ。それは宇宙の休息所であり、苦難の場でもあるような。とても説明出来ませんが、円垂形のブラソコの側面から尻尾のような、流星の尾のような線が外側に伸び、端末は猫のもののような感じで何となくはじかれていた。単なる尻尾なのか。私は宇宙星雲の磁場のようにも感ぜられた。この端末は一つの点でしかなかったが、無心に遊べる場でもあった。私は猫とよく遊ぶ。尻尾をつかんだり離したり。猫も私に応えるように、私を遊ばしてくれる。何気なく遊ぶ愛情の接点でもあった。端末を指先で軽くなでていた時、突然「フーッ」とびっくりするような激しさ。怒っているとは思われませんでしたが、猫にとってその端末は何かの極点であったのかもしれません。こちらの勝手な都合で妊娠中絶の手術をしたので、普通の猫にはない身体の変化が起ってのことかとも思った。天の配剤とでも言ったらよいのか。命の源泉にでもふれたような想いでした。話が思わない方にとんでしまいましたが、私は、アルへンチーナの舞踏は天地創造の一翼を荷った舞踏だ、と確信するに至りました。天に属する者として、多くの芸術家たちの力添えを与えられ、貪欲と思われるまでに研鑽に研鑽を重ね、身も心もささげつくし、四十六歳で夭逝しました。パリ郊外ヌイユのお墓には、「藝術のため生れ藝術のため死んだ」と記されておりました。悲しいばかりに堪えられない美しさの中で、世界中に深い感銘を与えたのでした。天地創造の一翼を荷うことによって神話が現実の世界に立ちもどったのです。
三、誕生のエネルギーとそのメカニック
生命誕生をめざして、無数の精子が卵子との結びつきのためひたすら彼岸をめざす。流れを遡る精子。狂気としかいいようがない。精子と卵子が結ばれた瞬間、受胎した卵子は命あるものとして激しく自転した。宇宙星雲の星の誕生。星の自転かと思った。卵子にはりついていた多数の精子も含め、結びつきの橋渡しをした無数の精子はどうなったのだろうか。塵遊宇宙という掛軸の言(ことば)を想いおこす。忘れられない言として心に刻みこまれています。母の胎内で成立した生命は、誕生後にそなえて自立出来るように、必要なあらゆる体験を積み重ねるのだと、何となく思っておった時に、受胎した卵子の自転を見た。その証しを見て我がことのように思い、思わず涙がこぼれ落ちたのでした。誕生の時の叫び。よろこび、悲しみ、無残さがうらはらに重なり合う。母なる命の、死への歩みの中で生命が育てられ、生と死の体験の中で命が誕生する。生命成立の橋渡しをした後の精子。淘汰という言葉ではどうしても割り切れない。誕生以前、生命の成立に先だってのことのような事実をどのように受けとったらよいのか。無意識の中で生命に刻みこまれる宇宙記憶。人間成立の重要な役割りを果たしているのではなかろうか、と秘かに思っている私は、いつとはなしに人間生命の原点は即感情の原点だと思うようになった。そうだ、あの事実は人間が生きるために絶対必要な感情成立の原点だったのだ。つらかったろう、いたかったろう。生命成立の貴重さを身をもって知らしめた事実だったのだ。「絶えまなく降りそそぐ天のかけら、巨岩なのか星なのか。もはや走っても無駄だと思った」。立ちつくしておったのか、うづくまってしまったのかわからないが、その時の映像が焼きつくように忘れられない(終戦直後見た白昼夢) 。あの巨岩は大地を打った。絶えまなく宇宙自身を打った。私をも打った。お蔭げで私は今存在している。人間の流す涙と天のかれらとは同じエネルギーではなかろうか。涙を流す人間は天のかけらから生れたと思っている。花を見て美しいと思う換骨奪胎のエネルギー。
生命誕生のエネルギー。
宇宙成立のエネルギー。
これらのエネルギーは同じであり、そのメカニックも同じではなかろうか。
舞踏は母の胎から、誕生する生命のように胎から生れるもので、そのエネルギー、メカニックは先に記したものと同じでなければならないし、舞踏の場は母の胎、宇宙の胎だと思っている。
四、胎内での朝餉(ごはんですよ)
太陽が昇ると共に始まる輝かしい朝餉。母の胎内での朝飼はどのようにして始まるのだろうか。私が声を出した。それは母の声のようでもある。私と母がパイプで繋って一つなので、そう聞えるのかも知れない。テーブルはどうなっていたんだろうか。静まった中でテーブルに触れたとき、母の命に触れたような想いになるのではないだろうか。「ごはんですよ」。味噌汁の湯気が立昇る。宇宙を映し出した胎内でのつつましい朝餉。勇んで食卓についた時も自分では分からぬまま、それなりに手にあますほどの問題を、いや手にあますにどどんどん大きくなっている命をかかえこんで、姿かたちまでかたむいてしまう。(日常生活とおんなじだー)。母が喰べることは私が喰べることに繋る。光輝く波間に浮んだ無数の孫たち(波頭)。みんな食卓に寄って来ているのに何か静まった想いだ。手が食卓に置かれていた。味噌汁の湯気が立昇っているのに喰べる気配がない。食卓に置かれた手と立昇る湯気が妙に気が合う。受胎した卵子(胎芽)はスキンシップのように子宮内壁に着床し、未成熟なまま神経と血管を血の海に突きたて、必死に小さな身体を動かす。まるでポソプだ。ゴックンゴックン。宇宙のリズムが天の音楽のように響いてくる。何を喰べて生きているんだって?愛という喰べものさ。小さい小さい手がそう知らしてくれる。「私の小さい手を見てごらん」と言っているようだ。「あの長いパイプはね、二人でつくったのよ」とどこからともなく聞えてくる。手が重なったり離れたり、このような中で、知恵が生れ心配りを体験することになる。ずれや遠まわりということも宇宙の撮理として体験する。宇宙記憶の中で大切なことであると思う。暖かさなのか、寒さなのか、喜びなのか、悲しみなのか、生と死さえも同居している。胎内での雨の運動会。泥んこになりながら走ったり転んだり、おきあがって、新たな生命はあらゆる事態に自立対応出来るように、その可能性をもって誕生してくるのだと思っている。