“死者奔馳而出" [譯自〈大野一雄舞踏譜—空中飛翔之殿堂〉]

※原文摘自 “大野一雄舞踏譜  —  御殿、空を飛ぶ。"   頁40─43
(思潮社 : 1998)

死者奔馳而出

我想當人們站立之時,是有數不盡的生命在周圍圍繞且並存。當然不全是生者,也包含了死者。我在1983年春天,到義大利、以色列拜訪的時候,新聞上曾報導「大野一雄帶著子孫們來到我們的土地」。南錫戲劇節時,離街道有段距離的海報上,似乎也具體畫上了有那樣觀點的圖畫。站在海的正中央,被浮在波浪間的孩子們包圍的女性,身著純白寬擺的禮服,對著被認為是從自己的裙子中灑落下的孩子們伸出雙手。像是在那雙眼目光中緊緊地擁抱。站立在環繞死海的山巒一角,朝向著太陽之時,繼天地創造後的大地移動,在我心深處映照了出來。被迫站在所謂「死海」的舞踏場地,同時也聽見不知從何處傳來了包含自身的鎮魂曲(彌撒)。與太陽面對面的過程中,我全盤托出我所擁有的全部,彷彿是在討論關於雜貨店開店一般,只是一心一意地追問著。就這樣度過了無止盡的時間。沒錯,那個時候,明明應該要安靜地聽見比山上的訓示更加重要的事情,但那時的我沒有注意到。在崩塌般地思緒中想要放聲大哭、盡情玩耍;渴望死亡、渴望生存。佇立在「死海」正中央,向孩子們伸出手永遠處在死亡的女人。圍繞著死海的山巒,明明覺得這種地方野獸應該不易生存,然而回過神來,對於有遍佈全山無數野獸馳騁的情況著實驚訝。如「鼬鼠」般的野獸,在太陽直射的山表飛奔,惹出了一陣大騷動。這是迴響在天地間無聲的大合唱。無論死亡、出生,或是互相親近、生存下去,全都是一樣的啊。真是可愛。真是心疼。

我應該是在喋喋不休地訴說著在母親胎內的體驗吧。「野獸與胎兒」。死海,環繞著死海的山巒在一片沉靜中,甚至能感受到活生生的死亡氣息。

人們有所謂的履歷表,宇宙也持有一份。我認為人類的履歷表是在與宇宙履歷表的重合中成立的,而誕生─成熟─死亡,這樣的步調是在宇宙論下的積累中所構成的。宇宙披上名為舞踏的衣裳。那是實際罩上肉體的衣裳,同時,披著靈魂的肉體也正是舞踏的衣裳,這點是不容置疑的。

胎兒走在雪地上。像是宇宙的祕密儀式般,將披著的衣裳一件件褪去,覆蓋在雪地上開出道路。然後這次又再剝下自己的皮來鋪路。颳起大風雪了,不,那是胎兒捲起風雪並且繼續前進。身纏白衣的白骨之舞。這如同跟暴風雪玩耍般的胎兒前行之舞是透明的。

從單細胞的時期到現今,順應環境、與環境搏鬥拚命地存活下來,歷經以億年為單位的歲月,生命的記錄銘刻在細胞裡。我覺得人類的型態就是那如山的鐵證。從人類的型態來看生命的型態,那麼靈魂與肉體為一密不可分。說不定妄想與夢想也是創建出人類形態的重要元素。

去世的父親與母親在北海道的中部湖邊,和睦地端坐著。明明幾乎每天都在吵架但感情仍是很好。雖然有聽過「夫妻在天堂是合一的天使」的說法,但究竟是為什麼呢?真的是因為結合成一位天使了嗎?

這是在拍攝「死者之書」電影時發生的事。水靜靜地滿溢著下陷的支笏湖。樽前山的噴煙彷彿回應著天空往上噴發。是大地的隆起甚至將河流也改變了嗎?乾涸的水流經過苔之洞門,注入至支笏湖。

我在這其中看著,佇立在與父母親沉靜的回憶之中,添加了一抹安樂的情感。

「宇宙乃是一名天使」,這句話同樣是史威登堡所言,然而父母也會與自然同化而成為一名天使,形成宇宙天使身上的裙擺樣貌。彷彿對著湖中央伸出手的碼頭。厚重且華麗,又荒誕無稽。當我聽見死者的口信時,身上穿著將軍(父親)的服裝,不知怎地湧起想從碼頭跳入進去的情感。母親在呼喚著父親嗎?身為父親兒子的我在呼喊著母親嗎?因為全身已濕透所以明天再做吧。到了明天想要再縱身跳入時,碼頭已消失得無影無蹤。原來是由於季節結束所以被撤去了。雖然那也是為了總結電影,最後的片段所必須的畫面,但實在可惜啊。

以父親的樣貌投奔至母親體內(湖裡)。藉由與父親和母親格外的連結,嶄新的生命「呱呱」一聲降臨於世。以母親的生命為食孩子漸漸成長。孩子是繼承了父母的每一分每一吋,誕生在世界上。在母親的胎中生命被滋養長大,從天的創始之初到現今,是千萬人輪迴不停之事。

「從內裡懷有自身的死亡(好比水果的果實藏在裡面),孩子小小地死去、大人大大地死去,女性的乳房中、男性的胸膛中,都藏有死亡這點,能帶給個人威嚴與自信。」(里爾克)

居住在Argentina內部的一雄,以昇華的方式喚醒無法想像出來的女性。從老死的身體變成煥然一新的少女,一步一步謙卑地將自我滅去。當下穿越生活的苦痛,一種新生的姿態。(1981年10月31日 解放報)

過去的記憶、對未來的願望是不可忘卻的事物,深深地扎根在心中。身為超出存在感的存在,用雙手觸摸著,像是棲息於肌膚上的生物般,然後在內部定居下來。是自己的一部分在內部實體化。這是如同活的生命,並非是將內在的事物化為自己的,而是不時得以自由地在內外進出。當然也有舉出白棋的時候。死者的歡呼聲和死者的氣息並存,精神飽滿地與靈魂相互共鳴。

凝視著花朵。身體在虛幻中迎來死亡,進入花朵內在深處。被奪走靈魂的肉體發生巨大變化。更迭替換著。脫胎換骨(將已換得新身的孩子所寄宿的子宮化為自己所有),羽化成仙(人們自凡胎蛻變成仙骨)。不得不跨越的肉體高牆阻擋在我面前,「搬運愛的死者腳步」。追尋愛的死者在躊躇中,希望能不停地一再重複在死海時的經驗。我與非得跨越過的肉體之牆一起,想要累積作為超越不了的肉體之牆的體驗。肢體變得七零八落,只剩炯炯有神的雙眼張開著。被迫站在神的面前時知曉了自身的存在,想法甚至變得凌亂不堪了。在南錫(法國)的Saint Fiaac教堂我以演出「耶穌的邀請」而進入到教會。身為神之子的教會,歷經長久歲月而磨損的石階,我感受到如同在母親胎內般而精疲力竭地蹲了下去。猶大為什麼選擇上吊自盡呢?即使他知道已得到寬恕。是因為太過懊悔嗎?所以就親自斷送了自己的生命。即使腐朽、衰老,人都得重視自己。你正是因為如此才得以受到寬恕,在往後的生命中你的心裡應不斷響起這些話。

「將用過扔掉的布(身體)投入空中,如同被引力命令般地掉落地面。然而就在那似已崩垮飄落的瞬間卻又立刻再次站起,像是翅膀受傷的蝴蝶處在垂死邊緣,卻是絕不筋疲力盡的頑強。雖然是剛強的生命沒錯,但不同於誇示擁有正午烈日般的年輕,這是生與死的狹縫間所發生之事情。彷彿已破爛的腳踏車,只要將不堪使用的部分匯集起來,就可以再次打造,再次起動。」(慶應大學 永井且先生)

僅是思考就心跳不已的極度疲勞狀態,竭盡全力地正面對抗,這對於舞踏家來說是最佳時機。揮灑汗水的同時,想起了在南美卡拉卡斯的表演。衰老的身體作為破爛的腳踏車依然飛馳的幸福。就是這件事讓人感到非常幸運的吧。死者奔馳出去。

阿哞的呼吸是怎麼樣的呢?是在永恆的時間裡嗎?還是像在相撲過程中可以看到的那一瞬間的巧手?只要一通過肉體的牆壁,就有種沒有配合到呼吸什麼也做不成的感覺。是要去主動配合,還是它會自行相應?是該等待,或是辨別清楚?真是要暈倒了。或許這本就無法配合也說不定,總是會有令人不知所措的經驗。然而在此生能有一次也好。我冀望著能體驗一次或兩次就好之事。

思想出來的?創造出來的?誕生出來的?不得不在這三者間擇一去做。

關於阿哞在字典上是這麼寫著:
「在密教中這二字即成法界萬有。阿是推動一切萬物的本體,哞是表現出終結一切的智慧與道德,或是代表菩提心、涅槃等的一種呼吸。」

人們在阿哞的呼吸中死亡,在阿哞的呼吸中誕生。

1985年5月24日

死者が走り出す

人間が立っている時、無数の命がまわりを取りまいて共に在るという相様を想うものです。もちろん生者ばかりでなく、死者も含まれております。私が一九八三年春、イタリー、イスラエルを訪問した時、共に「大野一雄は孫たちを連れて我々の土地にやってきた」と新聞に書かれた事があります。ナンシー演劇祭の時、街にはられていたポスターにも、そのような考え方が具体的に画かれておったようですが、海の真只中に立って、波に浮かぶたくさんの子供たちに取りかこまれた女性、純白な裾広がりのドレスをまとい、自分のスカートからこぼれ落ちたと思われる子供たちに手を差しのべ、そのまなざしの中でしっかりと抱いていたようです。死海を取りまく山並みの一角に立ち、太陽と向い合った時、天地創造につづいての大陸移動が、私の心の奥底に映し出されておりました。「死海」という舞踏の場に立たされ、自分をも含めた鎮魂の歌(ミサ) がどこからともなく聴えてくるのでした。太陽に向い合う中で、私は私の持てるものをすべてさらけ出し、まるで小間物屋の開店についての相談でもするように、ひたすらに問いかけるのみでした。際限のない時がたちました。そうだ、あの時、静かに山上の垂訓にも比すべき大事な事が語りきかせられておったのに……私は気がつきませんでした。つぶれるような想いで泣きたくなる、遊びたくなる、死にたくなる、生きたくなる。「死海」の真只中に立ちつくし、子供たちに手を差し伸べながら永遠に死につづける女。死海を取りまく山並み。こんなところにけものなんかとても棲めないと思っておったのに。気がついた時には、全山にわたって無数のけものたちが馳けめぐっていたには驚いた。「いたち」のようなけもので、太陽の直射する山肌に飛び出し大騒ぎ。天地にこだまする声なき大合唱。死も、出産も、むつみ合うことも、生きることも、皆一つのことだ。かわいいんだ。いたましいんだ。

私は母の胎内での体験を長々としゃべっていたのだろうか。「けものたちと胎児」。死海は、死海を取りまく山並みは静まった中、生き生きとした死の気配さえも感じられるのでした。

人間には履歴書というものがあるが、宇宙にも履歴書があり、人間の履歴書は宇宙の履歴書との重なりの中で成立していると思っています。誕生―成熟―死というパターンは宇宙論的な重なりの中で成り立っているのだと思っております。舞踏の衣裳は宇宙を羽織ることだ。それは肉体の上に羽織る衣裳であると共に、魂が羽織っている肉体もまた舞踏の衣裳であることは間違いありません。

胎児が雪路を歩んでいた。宇宙の秘儀のように羽織っている衣裳を、一枚一枚脱いでは雪の上に敷いて道をつくっていく。そして今度は自分の皮をはいで道に敷く。吹雪がまき起こり、いや胎児は吹雪を巻き起こしながら進んでいく。白衣をまとった白骨の舞。吹雪にたわむれるようにして進んで行く胎児の舞は透明だった。

単細胞の時から現在に至るまで、環境に順応し、環境と闘いながら必死に生き抜く中で、億単位の年月にわたっての細胞に刻み込まれた生命の記録。人間のかたちはその証しであると思っている。生命のかたちが人間のかたちだとすれば、魂と肉体とは離れ難く一つのものだ。妄想や夢も人間をかたちづくっている大切な要素かもしれない。

亡くなった父親と母親が北海道中部の湖のにとりに仲よく鎮座していた。毎日のように喧嘩しておったのに仲がよかった。「夫婦は天界に於ては一人の天使である」と聞いたことがありますが、どうしているだろうか。一人の天使になれただろうか。

「死者の書」の映画(長野千秋)を撮りに行った時のことでした。陥没した支笏湖が静かに水を湛えていた。樽前山が噴煙を天に応えるように吹き上げている。大地の隆起が流れまで変えてしまったのか、空(から)になった水の流れが苔の洞門を通り、支笏湖にそそいでおった。

父親と母親との静まった想いの中でのただずまいをその中に見、安らいだ想いが与えられた。

「宇宙は一人の天使である」という言(ことば)も共にスエーデンボルグの言だが、父と母が一人の天使として自然の中に同化し、宇宙の天使のもすそをかたちづくっている。湖心に差し出された手のような桟橋。重厚にして華麗、そして荒唐無稽、私は死者からの伝言を聞いたとき、将軍(父)の服装をしたまま、なぜか桟橋から飛び込みたいような想いだった。母が父をよんでいたのか、父の子である私を母がよんでいたのか。濡れるから明日にしようと思った。明日がきて飛び込もうと思ったが、桟橋はあとかたもなく消えていた。シーズンが終ったため片附けられてしまったのだった。映画の最後をしめくくるためにも、是非とも必要な場面だったのに残念で仕方ない。

父の姿をかりて母の胎(からだ)(湖)にとびこむ。父と母とのこよなきむすびつきによって新たな生命が「オギャー」と生れる。母の命を喰べて子が成長する。子は父と母のすみずみまで受けつぎ、この世に出生する。母の胎の中で生命が生れ育つということは、天地創(はじめ)から現在に至るまで、万人が繰り返していることだ。

「自分の死を内側に持つということ(果物が実を中に持っているように)子供は小さい死を、大人は大きい死を、女性は乳房の中に、男性は胸の中に死を持っていることが、その人だけに威厳と自信を与えてくれる」(リルケ)

アルヘンチーナの内部に住まっていた一雄が、昇華という形で考えられないような女性によみがえった。老いた死に体(たい)が真新しい少女に変身し、一歩一歩謙虚に自己を消滅させる。即ち生きる苦しみを通しての新生の姿である(一九八一年十月三十一日 レペラシオン紙)。

過去の記憶、未来への希いが忘れ得ないものとして、心の中に根をおろす。存在感以上の存在として手に触れ、肌に棲む生きもののように内部に住みつく。自分のものとして内部に実在することである。生きもののようにとは、内在しているものが己のものとしてでなく、時には外側にまで自在に出掛ける。白旗をひるがえすことだってある。死者の歓声が死者の気配と共に、生き生きと魂に共鳴し合う。

花をみつめる。肉体が夢幻の中で死に下降し、花の内奥に入っていく。魂を奪われ肉体が変貌する。入れ替る。換骨奪胎(骨を取り換え子を宿す胎を自分のものにする)、換骨羽化(人間が俗骨を仙骨に換える)。越えなければならない肉体の壁が私の前に立ちはだかる。「愛を運ぶ死者の足どり」。愛を捜す死者の戸惑いの中で、死海での体験を繰り返し繰り返し体験したい。乗り越えなければならない肉体の壁と共に、乗り越え得ない肉体の壁としての体験を重ねたい。肉体がバラバラになり、目だけがギョロギョロと見開かれている。神の前に立たされた時、自分というものを想い知らされ、バラバラになった想いでした。ナンシー(フラソス)サンフィアックの教会での「イエスの招き」として教会に入っていった時のことでした。神の胎としての教会、永年にわたりすりへった石の階段、私は母の胎を感じへたへたとうずくまってしまった。ユダはなぜ首を吊ってしまったのだろうか。許されることを知っていたとしても、悔いがあまりに深かったためか、自ら自分の命を絶ってしまった。朽ちても、老いても、大事にしなくては、お前はそれなりに存在を許されているのだと、生きる中で語りきかせられています。

「使い捨てられた布が(肉体が)空中に投げあげられ、引力が命ずるままに地上に落ち、ハラハラと崩れようとする瞬間に再びむっくりと立上るのに似て、羽を傷めた蝶のようにくたばりそうでいて、決してくたばることのない執拗さ。したたかな生命には違いないが、真昼の光の強さを持つ若さの誇示とは異なり、生と死の薄明の出来事。ポソコツ自動車のように、使い捨てになる部分がよせあつめられ、再構築され走り出すことが出来たら」(慶応大学。永井且氏)

考えただけで胸がドキドキする疲労の極に在る時、力をふりしぼって立ち向った時、それは舞踏家にとって最良の時であると。汗をまきちらしながらの南米カラカスの舞台を想い起こす。老いた肉体なるが故にポソコツ自動車として走るしあわせ。冥利につきるとはこのことか。死者が走り出す。

阿吽の呼吸とはどのようなものか。気の遠くなるような時間の中でか。角力の中でみられる瞬間の妙手のようなものか。肉体の壁を通ってということになると、何か呼吸が合わなければどうにもならないような気がする。合わせることか、合うことか。待つことか、考えることか、気が遠くなる。合わせない事かも知れない。どうにもならない体験はしょっちゅうだ。生涯に一回でもいい。一回でも二回でも体験したいものだと希っています。

考え出すものか、生み出すものか、生れるものか、この三つの中でやっていくより仕方ない。

阿吽について辞書にこう書かれていた。
「密教ではこの二字をもって法界萬有を撮し、阿は一切が発生する理体、吽は一切を終結する智徳を表わすとし、又菩提心を涅槃などを表わす吐く息と吸う息」。
人は阿吽の呼吸の中で死に、阿吽の呼吸の中で誕生する。

一九八五年五月二十四日

作者

Satyana

曾為劇場表演者 現為奧修門徒 1994年首見大野一雄與大野慶人的舞踏 自2007年至日本向慶人先生學習

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