“死者奔馳而出" [譯自〈大野一雄舞踏譜—空中飛翔之殿堂〉]

※原文摘自 “大野一雄舞踏譜  —  御殿、空を飛ぶ。"   頁40─43
(思潮社 : 1998)

死者奔馳而出

我想當人們站立之時,是有數不盡的生命在周圍圍繞且並存。當然不全是生者,也包含了死者。我在1983年春天,到義大利、以色列拜訪的時候,新聞上曾報導「大野一雄帶著子孫們來到我們的土地」。南錫戲劇節時,離街道有段距離的海報上,似乎也具體畫上了有那樣觀點的圖畫。站在海的正中央,被浮在波浪間的孩子們包圍的女性,身著純白寬擺的禮服,對著被認為是從自己的裙子中灑落下的孩子們伸出雙手。像是在那雙眼目光中緊緊地擁抱。站立在環繞死海的山巒一角,朝向著太陽之時,繼天地創造後的大地移動,在我心深處映照了出來。被迫站在所謂「死海」的舞踏場地,同時也聽見不知從何處傳來了包含自身的鎮魂曲(彌撒)。與太陽面對面的過程中,我全盤托出我所擁有的全部,彷彿是在討論關於雜貨店開店一般,只是一心一意地追問著。就這樣度過了無止盡的時間。沒錯,那個時候,明明應該要安靜地聽見比山上的訓示更加重要的事情,但那時的我沒有注意到。在崩塌般地思緒中想要放聲大哭、盡情玩耍;渴望死亡、渴望生存。佇立在「死海」正中央,向孩子們伸出手永遠處在死亡的女人。圍繞著死海的山巒,明明覺得這種地方野獸應該不易生存,然而回過神來,對於有遍佈全山無數野獸馳騁的情況著實驚訝。如「鼬鼠」般的野獸,在太陽直射的山表飛奔,惹出了一陣大騷動。這是迴響在天地間無聲的大合唱。無論死亡、出生,或是互相親近、生存下去,全都是一樣的啊。真是可愛。真是心疼。

我應該是在喋喋不休地訴說著在母親胎內的體驗吧。「野獸與胎兒」。死海,環繞著死海的山巒在一片沉靜中,甚至能感受到活生生的死亡氣息。

人們有所謂的履歷表,宇宙也持有一份。我認為人類的履歷表是在與宇宙履歷表的重合中成立的,而誕生─成熟─死亡,這樣的步調是在宇宙論下的積累中所構成的。宇宙披上名為舞踏的衣裳。那是實際罩上肉體的衣裳,同時,披著靈魂的肉體也正是舞踏的衣裳,這點是不容置疑的。

胎兒走在雪地上。像是宇宙的祕密儀式般,將披著的衣裳一件件褪去,覆蓋在雪地上開出道路。然後這次又再剝下自己的皮來鋪路。颳起大風雪了,不,那是胎兒捲起風雪並且繼續前進。身纏白衣的白骨之舞。這如同跟暴風雪玩耍般的胎兒前行之舞是透明的。

從單細胞的時期到現今,順應環境、與環境搏鬥拚命地存活下來,歷經以億年為單位的歲月,生命的記錄銘刻在細胞裡。我覺得人類的型態就是那如山的鐵證。從人類的型態來看生命的型態,那麼靈魂與肉體為一密不可分。說不定妄想與夢想也是創建出人類形態的重要元素。

去世的父親與母親在北海道的中部湖邊,和睦地端坐著。明明幾乎每天都在吵架但感情仍是很好。雖然有聽過「夫妻在天堂是合一的天使」的說法,但究竟是為什麼呢?真的是因為結合成一位天使了嗎?

這是在拍攝「死者之書」電影時發生的事。水靜靜地滿溢著下陷的支笏湖。樽前山的噴煙彷彿回應著天空往上噴發。是大地的隆起甚至將河流也改變了嗎?乾涸的水流經過苔之洞門,注入至支笏湖。

我在這其中看著,佇立在與父母親沉靜的回憶之中,添加了一抹安樂的情感。

「宇宙乃是一名天使」,這句話同樣是史威登堡所言,然而父母也會與自然同化而成為一名天使,形成宇宙天使身上的裙擺樣貌。彷彿對著湖中央伸出手的碼頭。厚重且華麗,又荒誕無稽。當我聽見死者的口信時,身上穿著將軍(父親)的服裝,不知怎地湧起想從碼頭跳入進去的情感。母親在呼喚著父親嗎?身為父親兒子的我在呼喊著母親嗎?因為全身已濕透所以明天再做吧。到了明天想要再縱身跳入時,碼頭已消失得無影無蹤。原來是由於季節結束所以被撤去了。雖然那也是為了總結電影,最後的片段所必須的畫面,但實在可惜啊。

以父親的樣貌投奔至母親體內(湖裡)。藉由與父親和母親格外的連結,嶄新的生命「呱呱」一聲降臨於世。以母親的生命為食孩子漸漸成長。孩子是繼承了父母的每一分每一吋,誕生在世界上。在母親的胎中生命被滋養長大,從天的創始之初到現今,是千萬人輪迴不停之事。

「從內裡懷有自身的死亡(好比水果的果實藏在裡面),孩子小小地死去、大人大大地死去,女性的乳房中、男性的胸膛中,都藏有死亡這點,能帶給個人威嚴與自信。」(里爾克)

居住在Argentina內部的一雄,以昇華的方式喚醒無法想像出來的女性。從老死的身體變成煥然一新的少女,一步一步謙卑地將自我滅去。當下穿越生活的苦痛,一種新生的姿態。(1981年10月31日 解放報)

過去的記憶、對未來的願望是不可忘卻的事物,深深地扎根在心中。身為超出存在感的存在,用雙手觸摸著,像是棲息於肌膚上的生物般,然後在內部定居下來。是自己的一部分在內部實體化。這是如同活的生命,並非是將內在的事物化為自己的,而是不時得以自由地在內外進出。當然也有舉出白棋的時候。死者的歡呼聲和死者的氣息並存,精神飽滿地與靈魂相互共鳴。

凝視著花朵。身體在虛幻中迎來死亡,進入花朵內在深處。被奪走靈魂的肉體發生巨大變化。更迭替換著。脫胎換骨(將已換得新身的孩子所寄宿的子宮化為自己所有),羽化成仙(人們自凡胎蛻變成仙骨)。不得不跨越的肉體高牆阻擋在我面前,「搬運愛的死者腳步」。追尋愛的死者在躊躇中,希望能不停地一再重複在死海時的經驗。我與非得跨越過的肉體之牆一起,想要累積作為超越不了的肉體之牆的體驗。肢體變得七零八落,只剩炯炯有神的雙眼張開著。被迫站在神的面前時知曉了自身的存在,想法甚至變得凌亂不堪了。在南錫(法國)的Saint Fiaac教堂我以演出「耶穌的邀請」而進入到教會。身為神之子的教會,歷經長久歲月而磨損的石階,我感受到如同在母親胎內般而精疲力竭地蹲了下去。猶大為什麼選擇上吊自盡呢?即使他知道已得到寬恕。是因為太過懊悔嗎?所以就親自斷送了自己的生命。即使腐朽、衰老,人都得重視自己。你正是因為如此才得以受到寬恕,在往後的生命中你的心裡應不斷響起這些話。

「將用過扔掉的布(身體)投入空中,如同被引力命令般地掉落地面。然而就在那似已崩垮飄落的瞬間卻又立刻再次站起,像是翅膀受傷的蝴蝶處在垂死邊緣,卻是絕不筋疲力盡的頑強。雖然是剛強的生命沒錯,但不同於誇示擁有正午烈日般的年輕,這是生與死的狹縫間所發生之事情。彷彿已破爛的腳踏車,只要將不堪使用的部分匯集起來,就可以再次打造,再次起動。」(慶應大學 永井且先生)

僅是思考就心跳不已的極度疲勞狀態,竭盡全力地正面對抗,這對於舞踏家來說是最佳時機。揮灑汗水的同時,想起了在南美卡拉卡斯的表演。衰老的身體作為破爛的腳踏車依然飛馳的幸福。就是這件事讓人感到非常幸運的吧。死者奔馳出去。

阿哞的呼吸是怎麼樣的呢?是在永恆的時間裡嗎?還是像在相撲過程中可以看到的那一瞬間的巧手?只要一通過肉體的牆壁,就有種沒有配合到呼吸什麼也做不成的感覺。是要去主動配合,還是它會自行相應?是該等待,或是辨別清楚?真是要暈倒了。或許這本就無法配合也說不定,總是會有令人不知所措的經驗。然而在此生能有一次也好。我冀望著能體驗一次或兩次就好之事。

思想出來的?創造出來的?誕生出來的?不得不在這三者間擇一去做。

關於阿哞在字典上是這麼寫著:
「在密教中這二字即成法界萬有。阿是推動一切萬物的本體,哞是表現出終結一切的智慧與道德,或是代表菩提心、涅槃等的一種呼吸。」

人們在阿哞的呼吸中死亡,在阿哞的呼吸中誕生。

1985年5月24日

死者が走り出す

人間が立っている時、無数の命がまわりを取りまいて共に在るという相様を想うものです。もちろん生者ばかりでなく、死者も含まれております。私が一九八三年春、イタリー、イスラエルを訪問した時、共に「大野一雄は孫たちを連れて我々の土地にやってきた」と新聞に書かれた事があります。ナンシー演劇祭の時、街にはられていたポスターにも、そのような考え方が具体的に画かれておったようですが、海の真只中に立って、波に浮かぶたくさんの子供たちに取りかこまれた女性、純白な裾広がりのドレスをまとい、自分のスカートからこぼれ落ちたと思われる子供たちに手を差しのべ、そのまなざしの中でしっかりと抱いていたようです。死海を取りまく山並みの一角に立ち、太陽と向い合った時、天地創造につづいての大陸移動が、私の心の奥底に映し出されておりました。「死海」という舞踏の場に立たされ、自分をも含めた鎮魂の歌(ミサ) がどこからともなく聴えてくるのでした。太陽に向い合う中で、私は私の持てるものをすべてさらけ出し、まるで小間物屋の開店についての相談でもするように、ひたすらに問いかけるのみでした。際限のない時がたちました。そうだ、あの時、静かに山上の垂訓にも比すべき大事な事が語りきかせられておったのに……私は気がつきませんでした。つぶれるような想いで泣きたくなる、遊びたくなる、死にたくなる、生きたくなる。「死海」の真只中に立ちつくし、子供たちに手を差し伸べながら永遠に死につづける女。死海を取りまく山並み。こんなところにけものなんかとても棲めないと思っておったのに。気がついた時には、全山にわたって無数のけものたちが馳けめぐっていたには驚いた。「いたち」のようなけもので、太陽の直射する山肌に飛び出し大騒ぎ。天地にこだまする声なき大合唱。死も、出産も、むつみ合うことも、生きることも、皆一つのことだ。かわいいんだ。いたましいんだ。

私は母の胎内での体験を長々としゃべっていたのだろうか。「けものたちと胎児」。死海は、死海を取りまく山並みは静まった中、生き生きとした死の気配さえも感じられるのでした。

人間には履歴書というものがあるが、宇宙にも履歴書があり、人間の履歴書は宇宙の履歴書との重なりの中で成立していると思っています。誕生―成熟―死というパターンは宇宙論的な重なりの中で成り立っているのだと思っております。舞踏の衣裳は宇宙を羽織ることだ。それは肉体の上に羽織る衣裳であると共に、魂が羽織っている肉体もまた舞踏の衣裳であることは間違いありません。

胎児が雪路を歩んでいた。宇宙の秘儀のように羽織っている衣裳を、一枚一枚脱いでは雪の上に敷いて道をつくっていく。そして今度は自分の皮をはいで道に敷く。吹雪がまき起こり、いや胎児は吹雪を巻き起こしながら進んでいく。白衣をまとった白骨の舞。吹雪にたわむれるようにして進んで行く胎児の舞は透明だった。

単細胞の時から現在に至るまで、環境に順応し、環境と闘いながら必死に生き抜く中で、億単位の年月にわたっての細胞に刻み込まれた生命の記録。人間のかたちはその証しであると思っている。生命のかたちが人間のかたちだとすれば、魂と肉体とは離れ難く一つのものだ。妄想や夢も人間をかたちづくっている大切な要素かもしれない。

亡くなった父親と母親が北海道中部の湖のにとりに仲よく鎮座していた。毎日のように喧嘩しておったのに仲がよかった。「夫婦は天界に於ては一人の天使である」と聞いたことがありますが、どうしているだろうか。一人の天使になれただろうか。

「死者の書」の映画(長野千秋)を撮りに行った時のことでした。陥没した支笏湖が静かに水を湛えていた。樽前山が噴煙を天に応えるように吹き上げている。大地の隆起が流れまで変えてしまったのか、空(から)になった水の流れが苔の洞門を通り、支笏湖にそそいでおった。

父親と母親との静まった想いの中でのただずまいをその中に見、安らいだ想いが与えられた。

「宇宙は一人の天使である」という言(ことば)も共にスエーデンボルグの言だが、父と母が一人の天使として自然の中に同化し、宇宙の天使のもすそをかたちづくっている。湖心に差し出された手のような桟橋。重厚にして華麗、そして荒唐無稽、私は死者からの伝言を聞いたとき、将軍(父)の服装をしたまま、なぜか桟橋から飛び込みたいような想いだった。母が父をよんでいたのか、父の子である私を母がよんでいたのか。濡れるから明日にしようと思った。明日がきて飛び込もうと思ったが、桟橋はあとかたもなく消えていた。シーズンが終ったため片附けられてしまったのだった。映画の最後をしめくくるためにも、是非とも必要な場面だったのに残念で仕方ない。

父の姿をかりて母の胎(からだ)(湖)にとびこむ。父と母とのこよなきむすびつきによって新たな生命が「オギャー」と生れる。母の命を喰べて子が成長する。子は父と母のすみずみまで受けつぎ、この世に出生する。母の胎の中で生命が生れ育つということは、天地創(はじめ)から現在に至るまで、万人が繰り返していることだ。

「自分の死を内側に持つということ(果物が実を中に持っているように)子供は小さい死を、大人は大きい死を、女性は乳房の中に、男性は胸の中に死を持っていることが、その人だけに威厳と自信を与えてくれる」(リルケ)

アルヘンチーナの内部に住まっていた一雄が、昇華という形で考えられないような女性によみがえった。老いた死に体(たい)が真新しい少女に変身し、一歩一歩謙虚に自己を消滅させる。即ち生きる苦しみを通しての新生の姿である(一九八一年十月三十一日 レペラシオン紙)。

過去の記憶、未来への希いが忘れ得ないものとして、心の中に根をおろす。存在感以上の存在として手に触れ、肌に棲む生きもののように内部に住みつく。自分のものとして内部に実在することである。生きもののようにとは、内在しているものが己のものとしてでなく、時には外側にまで自在に出掛ける。白旗をひるがえすことだってある。死者の歓声が死者の気配と共に、生き生きと魂に共鳴し合う。

花をみつめる。肉体が夢幻の中で死に下降し、花の内奥に入っていく。魂を奪われ肉体が変貌する。入れ替る。換骨奪胎(骨を取り換え子を宿す胎を自分のものにする)、換骨羽化(人間が俗骨を仙骨に換える)。越えなければならない肉体の壁が私の前に立ちはだかる。「愛を運ぶ死者の足どり」。愛を捜す死者の戸惑いの中で、死海での体験を繰り返し繰り返し体験したい。乗り越えなければならない肉体の壁と共に、乗り越え得ない肉体の壁としての体験を重ねたい。肉体がバラバラになり、目だけがギョロギョロと見開かれている。神の前に立たされた時、自分というものを想い知らされ、バラバラになった想いでした。ナンシー(フラソス)サンフィアックの教会での「イエスの招き」として教会に入っていった時のことでした。神の胎としての教会、永年にわたりすりへった石の階段、私は母の胎を感じへたへたとうずくまってしまった。ユダはなぜ首を吊ってしまったのだろうか。許されることを知っていたとしても、悔いがあまりに深かったためか、自ら自分の命を絶ってしまった。朽ちても、老いても、大事にしなくては、お前はそれなりに存在を許されているのだと、生きる中で語りきかせられています。

「使い捨てられた布が(肉体が)空中に投げあげられ、引力が命ずるままに地上に落ち、ハラハラと崩れようとする瞬間に再びむっくりと立上るのに似て、羽を傷めた蝶のようにくたばりそうでいて、決してくたばることのない執拗さ。したたかな生命には違いないが、真昼の光の強さを持つ若さの誇示とは異なり、生と死の薄明の出来事。ポソコツ自動車のように、使い捨てになる部分がよせあつめられ、再構築され走り出すことが出来たら」(慶応大学。永井且氏)

考えただけで胸がドキドキする疲労の極に在る時、力をふりしぼって立ち向った時、それは舞踏家にとって最良の時であると。汗をまきちらしながらの南米カラカスの舞台を想い起こす。老いた肉体なるが故にポソコツ自動車として走るしあわせ。冥利につきるとはこのことか。死者が走り出す。

阿吽の呼吸とはどのようなものか。気の遠くなるような時間の中でか。角力の中でみられる瞬間の妙手のようなものか。肉体の壁を通ってということになると、何か呼吸が合わなければどうにもならないような気がする。合わせることか、合うことか。待つことか、考えることか、気が遠くなる。合わせない事かも知れない。どうにもならない体験はしょっちゅうだ。生涯に一回でもいい。一回でも二回でも体験したいものだと希っています。

考え出すものか、生み出すものか、生れるものか、この三つの中でやっていくより仕方ない。

阿吽について辞書にこう書かれていた。
「密教ではこの二字をもって法界萬有を撮し、阿は一切が発生する理体、吽は一切を終結する智徳を表わすとし、又菩提心を涅槃などを表わす吐く息と吸う息」。
人は阿吽の呼吸の中で死に、阿吽の呼吸の中で誕生する。

一九八五年五月二十四日

“尋求情感的泉源" [譯自〈大野一雄舞踏譜—空中飛翔之殿堂〉]

※原文摘自 “大野一雄舞踏譜  —  御殿、空を飛ぶ。"   頁40─43
(思潮社 : 1998)

尋求情感的泉源

一、這山巒是我們的身體

環繞著死海的山巒,明明覺得這種地方生物應該不易生存,然而卻有遍佈全山如「鼬鼠」般的野獸,在太陽直射的山的表面四處奔馳令人驚訝。他們在如同用「鹽鹵」凝固的紅褐色山表上挖洞棲息,吃的是山脈原本還在海底時所蘊藏的微生物,換言之,也可認為他們是以山為食來生存的。對他們而言山就是全部,就像在母親的胎內,以母親的肚子為食物而存活。岩鹽上所積存的雨水扮演著「水池」的角色,因為灼熱的太陽會使水份蒸發出來,這不正是支撐起他們的生命嗎?用身體靜靜承受夜晚冰冷的空氣,聚集在邊邊角角處吸吮水滴的野獸姿態。圓圓的雙眼加上長長的毛髮,彷彿一起決定好似的同時開始汲取。就像是母親的「胸部」。不知不覺間傳來一陣親切感。整個山間都在進行沉默的大合唱。山巒為你們所擁有,山巒是你們的身體。我們拜訪的時候是乾旱期,雖是草木不生的的荒地,但對他們而言則是「伊甸園」。在這樣的環境中擁有最大的自由,只要一出現未知的事物,全身的能量絕對會因好奇心的驅使而可集中轉到此處。像在地平線的盡頭、又像在世界的中心一般非常地不可思議。在他們馳騁於我裡面之前,我和他們就已親近了起來。儘管是荒涼的山表然一切的一切都很完備。

二、回到現實世界的神話

自1929年,在帝國劇場看到西班牙女舞蹈家La Argentina(Antonia Mercé 1890-1936)以來,死亡的框架就下降、打開了,使我得以和她一起同住。能有這樣的聯繫,多虧了有畫出宇宙空間的畫家中西夏之先生的作品,非常感謝他。我在1976年,先生的個展出口附近展示的一幅畫中看見Argentina的倩影,不禁佇立在和她再度相會的情境之中。先生他完全不了解Argentina,也未曾觀賞過她的舞踏表演。以弧線包圍住的宇宙空間裡懸浮著的空中鞦韆。那是宇宙的休息站,也如同是苦難的場所。雖不太能夠好好說明,不過從圓錐形的鞦韆側面開始,向外側延伸出像是尾巴、流星一般的線,末端總覺得像是貓咪的某個東西似的它彈射了出去。只是單純的尾巴嗎?我也感受到了如宇宙星雲的磁場。那個末梢雖然只是一個點,卻是一個能在其中天真無心的遊戲場。我時常與貓咪玩耍。抓著牠的尾巴又放開來。貓兒也會陪我嬉戲,像是回應我一般。這也是個可以隨意遊玩的愛情的接觸點。若用指尖輕輕撫摸時,牠會突然發出「呼嚕」般激烈驚人的聲音。雖然不會認為是在生氣,但對貓咪而言那個末梢是某種極限也說不定。我想可能是那次為了自己的方便替牠做了墮胎手術,因而發生了一般貓咪不會有的身體變化。這可以說是上天的安排嗎?甚至我會有像是觸碰到生命的源頭這般的想法。雖然話題朝著意料之外的方向進展。但我現在更加確信,Argentina的舞蹈是肩負了天地創造的舞蹈之一。做為臣屬於天之人,獲得不少藝術家們的援助,一再地鑽研直至被認為是貪婪的程度。她奉獻身心、鞠躬盡瘁,到了46歲就驟逝。在巴黎郊外紐爾的墓碑上銘刻著「為藝術而生為藝術而亡」。滿是悲傷令人窒息的美麗中,給予了世界深深地感動。藉由肩負起創造天地一部分的任務,神話因而回到了現實世界。

三、誕生的能量及其結構

以生命誕生為目標,無數的精子為了與卵子結合,一心一意往彼岸前進。逆流而上的精子,只能說它們真的是瘋了。當精子與卵子結合的瞬間,受精的卵子獲得了生命激烈地自轉起來。宇宙星雲的星星誕生,莫非這是星星的自轉?包括吸附在卵子上的精子,這些做為連結橋樑的無數精子變的怎麼樣了呢?回想起一副寫著“塵遊宇宙”的掛軸。那是深深銘刻在心上無法忘懷的一句話。在母親的胎內形成的生命,為了誕生出來後能夠獨立,要累積起所有必需的經驗。正當不自覺地這麼想著時,我看見受精卵子的自轉。看見此驗證想到這就如同我自身,不禁落下了淚滴。出生時的喊叫。歡喜、悲傷、不幸以及種種,既相反又交錯地重合。在母親成為的生命、在步向死亡的過程中培育生命,在體會生與死的過程中生命誕生。建立出生命的橋梁之後的精子,不論怎麼樣都無法撇開淘汰這字眼。 該怎麼去理解像是在誕生以前,生命成立之前就發生過般的事實才好?在無意識中刻畫在生命裡的宇宙記憶。我偷偷地在想,莫非是那促使人類成立的重要角色,不知不覺中開始覺得人類生命的原點就是情感的原點。沒錯,那事實就是人類為了生存絕對必須確立情感的原點。很沉重吧?很痛苦吧?切身體驗到生命的形成是如此珍貴這件事實。「無停歇的傾洩下天上的碎片,是巨岩的亦或是星星的?就算現在要跑也只是徒勞了」。站著不動嗎?已經不知道自己是不是蜷縮著的,那時的景像彷彿烙印在腦海無法忘懷(剛停戰沒多久做的白日夢)。那顆巨岩撞擊大地,夜以繼日地敲打宇宙本身,也打動了我。多虧如此才有現在的我存在。人們流的淚水和天上的那些是來自相同的能量吧。我想流淚的人是從天上的碎片中誕生的。那是看見花朵就會覺得美麗的一種脫胎換骨的能量。
生命誕生的能量。
宇宙形成的能量。
與這些能量相同,那些結構不也是這樣的嗎?
舞踏是來自母親的胎內,如同生命的誕生亦是從腹裡出生。那股能量、那結構,與之前的記錄不能不是相同的,所以我覺得舞踏的場地就是在母親的胎內、在宇宙的腹部裡。

四、胎內的早餐(吃飯囉)

與太陽升起一同閃耀的早餐。在母親的腹部裡吃早餐是要怎麼來開始呢?我發出了聲音,那和母親的聲音有些相似。或許是因為我與母親藉由導管組織相連而合一的關係,所以才會那麼覺得。桌子又是如何呢?一片靜寂中觸摸桌子時,不正宛如觸碰到母親的生命一般?「吃飯了喔」。熱氣騰騰的味噌湯。一頓映照出宇宙的子宮內部恭恭敬敬的早餐。精神抖擻地到餐桌旁的自己仍然是一無所知,懷抱著與此相對難以負荷的問題,不,應該是說雙手懷抱著無法控制漸漸擴大的生命,甚至連身軀姿態都因此傾斜了起來。(平常生活中也是這樣)。母親的吃與我的吃是相連著的。無數的子孫們沉浮在閃耀的波浪間(浪頭)。大家都靠向餐桌了卻是一種平靜下來的情緒。手放在餐桌上。味噌湯的熱氣升起但沒有要動筷的跡象。放在餐桌上的手與升起的熱氣兩者格外合得來。受精的卵子(胚胎)如同親密地接觸般,著床在子宮內壁,未長成的神經和血管樹立在血海中,他努力地擺動著小小的身軀。彷彿是幫浦一樣,咕嚕咕嚕。宇宙的節奏如同天上樂音陣陣傳來。你問他是食用什麼來生存?是靠愛的食糧啊。是那雙小小的手讓我理解到這點。那像是在說「看看我這雙小手」。不知從哪裡聽見「是那長長的導管呀,製造出這兩人的喲」。交疊雙手、放開雙手,在這樣的過程中,能發展出智慧並體會到關懷。偏差或者遠離四週也能成為一種宇宙法則的體驗。我想這是宇宙記憶中最為重要的事。是溫暖的?冰冷的?喜悅的?悲傷的?即使是死亡也與生命並存著。在子宮裡面下著雨的運動會。渾身沾滿泥巴奔跑、跌倒,再度爬起,我想就如同嶄新的生命對一切狀況都能獨立應對,我們是擁有那樣的可能性並且由此誕生出來。

感情の源泉を求めて

一、この山並みは私たちの身体だ

死海をとりまく山並み、こんなところには生きものなんかとても棲めないと思ったのに、全山いたるところに「いたち」のようなけものが、太陽の直射する山肌を馳けめぐっていたには驚いた。赤茶けた「ニガリ」で固められたような山肌に穴を掘って棲み、かつて海底であった時に蓄積された微生物を喰べ、言って見れば山を喰べて生きていたのだと考えられるのでした。彼等にとって山はすべてであり、母なる胎であり、母なる胎を食物として生きておったのです。岩塩の上に貯えられた雨水が「プール」の役割をし、焼けつくような太陽が水分を立昇らせ、彼等の命を支えておったのでないかと思っています。夜間の冷たい空気をじいっとして身体で受け止め、端末に集った水滴を吸うけものたちの姿。目はまん丸く髪をはやし、時間をきめたように一斉に吸いはじめる。まるで母親の「オッパイ」です。親近感がどちらからともなく伝わってくる。全山を挙げての沈黙の大合唱。山並みはお前たちのものだ。山並みはお前たちの身体だ。私たちが訪ねた時は乾期であり、草木一本生えていない荒地そのものでしたが、彼等にとっては「エデソの園」だったのです。このような環境の中で最大の自由を獲得し、未知なるものに対し、その好奇心からか全エネルギーを集中してこちらを振向いていたに違いありません。地の果てのようでもあるし、世界の中心でもあるような不思議な想いにかられるのでした。彼等は私の内部を馳けめぐるまでに親しくなったのでした。荒原たる山肌なのに何から何まで整っていた。

二、現実の世界に立ち戻った神話

一九二九年、帝国劇場で観たスペイソの舞姫ラ・アルへソチーナ(アソトニア・メルセ 一八九〇─一九三六年)以来、死の枠にまで下降し共に住んでおります。このようなつながりは、宇宙空間に画いた画家中西夏之氏の絵によるお蔭げと感謝しております。私は一九七六年、氏の個展で出口近くに掲げられた一枚の絵の中にアルへソチーナの姿を見、アルへソチーナに再会した想いの中で立ちつくしてしまったのでした。氏はアルへソチーナを全く知らなかったし、その舞踏を見ておらなかったのです。弧に取り囲まれた宇宙空間に浮んでいたのは空中ブランコ。それは宇宙の休息所であり、苦難の場でもあるような。とても説明出来ませんが、円垂形のブラソコの側面から尻尾のような、流星の尾のような線が外側に伸び、端末は猫のもののような感じで何となくはじかれていた。単なる尻尾なのか。私は宇宙星雲の磁場のようにも感ぜられた。この端末は一つの点でしかなかったが、無心に遊べる場でもあった。私は猫とよく遊ぶ。尻尾をつかんだり離したり。猫も私に応えるように、私を遊ばしてくれる。何気なく遊ぶ愛情の接点でもあった。端末を指先で軽くなでていた時、突然「フーッ」とびっくりするような激しさ。怒っているとは思われませんでしたが、猫にとってその端末は何かの極点であったのかもしれません。こちらの勝手な都合で妊娠中絶の手術をしたので、普通の猫にはない身体の変化が起ってのことかとも思った。天の配剤とでも言ったらよいのか。命の源泉にでもふれたような想いでした。話が思わない方にとんでしまいましたが、私は、アルへンチーナの舞踏は天地創造の一翼を荷った舞踏だ、と確信するに至りました。天に属する者として、多くの芸術家たちの力添えを与えられ、貪欲と思われるまでに研鑽に研鑽を重ね、身も心もささげつくし、四十六歳で夭逝しました。パリ郊外ヌイユのお墓には、「藝術のため生れ藝術のため死んだ」と記されておりました。悲しいばかりに堪えられない美しさの中で、世界中に深い感銘を与えたのでした。天地創造の一翼を荷うことによって神話が現実の世界に立ちもどったのです。

三、誕生のエネルギーとそのメカニック

生命誕生をめざして、無数の精子が卵子との結びつきのためひたすら彼岸をめざす。流れを遡る精子。狂気としかいいようがない。精子と卵子が結ばれた瞬間、受胎した卵子は命あるものとして激しく自転した。宇宙星雲の星の誕生。星の自転かと思った。卵子にはりついていた多数の精子も含め、結びつきの橋渡しをした無数の精子はどうなったのだろうか。塵遊宇宙という掛軸の言(ことば)を想いおこす。忘れられない言として心に刻みこまれています。母の胎内で成立した生命は、誕生後にそなえて自立出来るように、必要なあらゆる体験を積み重ねるのだと、何となく思っておった時に、受胎した卵子の自転を見た。その証しを見て我がことのように思い、思わず涙がこぼれ落ちたのでした。誕生の時の叫び。よろこび、悲しみ、無残さがうらはらに重なり合う。母なる命の、死への歩みの中で生命が育てられ、生と死の体験の中で命が誕生する。生命成立の橋渡しをした後の精子。淘汰という言葉ではどうしても割り切れない。誕生以前、生命の成立に先だってのことのような事実をどのように受けとったらよいのか。無意識の中で生命に刻みこまれる宇宙記憶。人間成立の重要な役割りを果たしているのではなかろうか、と秘かに思っている私は、いつとはなしに人間生命の原点は即感情の原点だと思うようになった。そうだ、あの事実は人間が生きるために絶対必要な感情成立の原点だったのだ。つらかったろう、いたかったろう。生命成立の貴重さを身をもって知らしめた事実だったのだ。「絶えまなく降りそそぐ天のかけら、巨岩なのか星なのか。もはや走っても無駄だと思った」。立ちつくしておったのか、うづくまってしまったのかわからないが、その時の映像が焼きつくように忘れられない(終戦直後見た白昼夢) 。あの巨岩は大地を打った。絶えまなく宇宙自身を打った。私をも打った。お蔭げで私は今存在している。人間の流す涙と天のかれらとは同じエネルギーではなかろうか。涙を流す人間は天のかけらから生れたと思っている。花を見て美しいと思う換骨奪胎のエネルギー。
生命誕生のエネルギー。
宇宙成立のエネルギー。
これらのエネルギーは同じであり、そのメカニックも同じではなかろうか。
舞踏は母の胎から、誕生する生命のように胎から生れるもので、そのエネルギー、メカニックは先に記したものと同じでなければならないし、舞踏の場は母の胎、宇宙の胎だと思っている。

四、胎内での朝餉(ごはんですよ)

太陽が昇ると共に始まる輝かしい朝餉。母の胎内での朝飼はどのようにして始まるのだろうか。私が声を出した。それは母の声のようでもある。私と母がパイプで繋って一つなので、そう聞えるのかも知れない。テーブルはどうなっていたんだろうか。静まった中でテーブルに触れたとき、母の命に触れたような想いになるのではないだろうか。「ごはんですよ」。味噌汁の湯気が立昇る。宇宙を映し出した胎内でのつつましい朝餉。勇んで食卓についた時も自分では分からぬまま、それなりに手にあますほどの問題を、いや手にあますにどどんどん大きくなっている命をかかえこんで、姿かたちまでかたむいてしまう。(日常生活とおんなじだー)。母が喰べることは私が喰べることに繋る。光輝く波間に浮んだ無数の孫たち(波頭)。みんな食卓に寄って来ているのに何か静まった想いだ。手が食卓に置かれていた。味噌汁の湯気が立昇っているのに喰べる気配がない。食卓に置かれた手と立昇る湯気が妙に気が合う。受胎した卵子(胎芽)はスキンシップのように子宮内壁に着床し、未成熟なまま神経と血管を血の海に突きたて、必死に小さな身体を動かす。まるでポソプだ。ゴックンゴックン。宇宙のリズムが天の音楽のように響いてくる。何を喰べて生きているんだって?愛という喰べものさ。小さい小さい手がそう知らしてくれる。「私の小さい手を見てごらん」と言っているようだ。「あの長いパイプはね、二人でつくったのよ」とどこからともなく聞えてくる。手が重なったり離れたり、このような中で、知恵が生れ心配りを体験することになる。ずれや遠まわりということも宇宙の撮理として体験する。宇宙記憶の中で大切なことであると思う。暖かさなのか、寒さなのか、喜びなのか、悲しみなのか、生と死さえも同居している。胎内での雨の運動会。泥んこになりながら走ったり転んだり、おきあがって、新たな生命はあらゆる事態に自立対応出来るように、その可能性をもって誕生してくるのだと思っている。

Yoshito Ohno in Munich, Bologna, Barcelona

Dear Friends,

Yoshito Ohno is now in Munich to give workshops and perform “Flower and Bird–A Letter to My Future Self.”  He comes to Bologna and Barcelona afterwards.

●●● in Munich ●●●
March 3-7   Workshop by Yoshito Ohno at Tanztendenz Munchen               18:00- 21:00
March 6       Video Lecture “Butoh Origins” at Ludwig-Maximilians-Universitat   13:00-15:30
March 8-9   Yoshito Ohno’s performance “Flower and Bird–A Letter to My Future Self” at i-camp / Neues Theater Munchen  20:30-
Organized by Meta Theater Munich
http://www.meta-theater.com/

●●● in Bologna ●●●
“Butoh: from Kazuo to Yoshito Ohno”
March 11-12  Workshop by Yoshito Ohno at DOM La cupola del pilastro  16:00-19:00
March 14        Exhibition “Kazuo Ohno Archive: work in progress” at DOM  19:00-
March 14-15  Yoshito Ohno’s performance “Flower and Bird–A Letter to My Future Self” at DOM  21:00-
Organized by LAMINARIE
http://www.lacupola.bo.it/pagina.php?sezione=programma&pagina=36#yoshito

●●●  in Barcelona ●●●
March 18-19  Workshop by Yoshito Ohno at Sala Pina Bausch, Mercat de les Flors  10:00-13:00
March 21-22  Yoshito Ohno’s performance “Flower and Bird–A Letter to My Future Self” at Sala Ovidi Montllor, Mercat de les Flors  20:30-
Organized by Mercat de les Flors
http://mercatflors.cat/

——————————————————————-
Issued by Canta Co.Ltd (Kazuo Ohno Dance Studio Office)
Email: info@kazuoohnodancestudio.com
Tel/Fax : (+81)-3-3450-6507

Copyright (c) 2014 Kazuo Ohno Dance Studio & CANTA Co.Ltd. All Rights Reserved.

Kazuo Ohno Dance Studio    http://www.kazuoohnodancestudio.com/

 

Yoshito Ohno

Kazuo Ohno Festival 2013—大野慶人演出訊息

大野慶人  「花與鳥─給未來自己的一封信」

這回我將表演大野一雄《阿根廷娜頌》上半場的首幕作品《ディヴィーヌ抄》(Divine-sho)。演出土方巽於1985年,他逝世的前一年,指導我的作品。這一次,

我所舞的是我—-此時此刻的我。

10 月4日(五)19 : 30 開演 10 月5日(六)16 : 00 開演 10 月6日(日)16 : 00 開演

導演、編排、演出:大野慶人

會場:BankART Studio NYK 3F展場

票價:預購2500日圓  現場3000日圓

大野慶人

出生於1938年的東京。1959年於土方巽的「禁色」中演出少年的角色。之後,參與策劃亞陶館及暗黑舞踏派的公演。1969年,在初次舉辦個人獨舞公演後停止舞台活動。1985年以和大野一雄共演的「死海」重登舞台。86年以後演出大野一雄的全部作品。1998年,以郡司正勝先生的遺稿為基礎,上演自己的獨舞作品「道林‧格雷最後的畫像」。近期作品為「確實的早晨」(2010)、「時之風」(2012)等等。著作有「大野一雄 靈魂食糧」(Film Art出版社),此書英譯後為衛斯理大學出版部(Wesleyan University Press)所發行「Kazuo Ohno’s World」的一部份。

Yoshito Ohno  Flower and Bird – A Letter to my future Self

On this occasion I will dance ‘Divine-sho’, the opening scene from Kazuo Ohno’s Admiring La Argentina. I will dance a piece Hijikata Tatsumi choreographed for me in 1985, a year before his death. This time round, I will dance me – as I am.

Friday, October 4th. 19:30 Saturday, October 5th. 16:00 Sunday, October 6th. 16:00

Directed, choreographed and performed by Yoshito Ohno

Venue: BankART Studio NYK 3F Gallery

Admission: ¥2,500 (in advance); ¥3,000 (on the day)

Yoshito Ohno Born in Tokyo in 1938. Ohno appeared in Hijikata’s Forbidden Colors in 1959 in the role of a young man. He attended the activities of Artaud-kan and Ankoku Buto-ha. After some suspension, he co-performed with his father, Kazuo Ohno in the Dead Sea in 1985. Since 1986, Yoshito had directed all the pieces of Kazuo Ohno. In 1998 he performed “The last portrait of Dorian Gray” based on Gunji Masakatsu’s posthumous work. The recent works include: “A Promising Morning(2010)” and “Time Wind(2012).” He also published “Food for the Soul” (Film Art-sha), which was issued as part of “kazoo ohno’s world” in English by Wesleyan University Press.

2013-4

more on:  http://www.kazuoohnodancestudio.com/

摘錄 “花的美麗 就是生命的美麗” [大野一雄父子訪談]

※引自“表演藝術雜誌” (1994,7)

時間:1994年6月6日 20:30
地點:中山北路登琨艷工作室
主持:林懷民
出席:大野一雄
大野慶人
薩爾‧穆吉揚托

對談圖1

          上個月,舞踏大師大野一雄和其次子大野慶人翩然抵達台灣,為我們帶來兩套舞碼《睡蓮》、《死海》,和三場極為動人的演出。
此外,他們在藝術學院舉辦了一場舞蹈講座,在教室中領著學員婆娑起舞,給學員許多啟發。
我們更趁著這個千載難逢的機會,邀請雲門舞集的林懷民、藝術學院客席教授薩爾‧穆吉揚托和大野父子進行了一場精彩的對談。

建築家登琨艷的工作室有滿屋子古色古香的明朝傢俱,四面牆上掛著素雅的卷軸水墨,為了迎接大野父子的到來,主人買了數朵長梗白色姬百合插在水瓶中。大野一雄進門就被桌子上一尊美麗的觀音頭像所吸引,他走到頭像面前,即興舞了兩三分鐘。舞畢,他在眾人吃驚的目光中走回座位。他說,台北有青山圍繞,起伏的山巒像斜躺的觀音,感覺是台北受著觀音的保護似的。他到台北來精神、演出都順利,觀音也保佑了他。因此看到了觀音像就很自然的想走過去回禮、問好。他提及當還在日本體操大學唸書時,住在宿舍二樓,同層有三、四名台灣留學生,他常和他們無拘無束的交談。他到台灣來演出,這些感覺好像又回來了,是一種很親切的感覺。
林懷民:非常謝謝您到台灣來,給我們帶來如此精彩動人的舞蹈。《表演藝術雜誌》舉辦這場訪談,正好讓我有機會向您請教:您在舞台上的表演,把嬰兒般的純真和歲月的滄桑不可思議的合為一體。我很好奇您跳舞時,頭腦裡想些什麼呢?
大野一雄:使用頭腦的工作要讓給政治家和經濟學者。跳舞時我只用「心」來跳。
林懷民:(大笑) 我同意。如果跳舞時大腦仍想事情,那就不是純粹的舞蹈了。
薩爾‧穆吉揚托:兩年前我曾在紐約看到您的演出,當時您已八十六歲,此回再度觀賞您的演出,仍是感動不已。我想請教大野先生在舞了這麼多年後,您認為舞蹈是什麼呢?

舞蹈就是對生命非常地珍惜

大野一雄:簡潔地講,我覺得舞蹈就是一種對「自己」或是「生命」非常珍惜的心情。
大野慶人:除了珍惜活著的人,已死的人,他也一樣地看待。在他的哲學中,死後還有生命,活著的人和死去的人相互珍惜,舞蹈的意義就會彰顯。

對談圖9.1

林懷民:請問您們在演出前如何準備自己,以進入演出的情緒?
大野一雄:我總是平常就先儘可能做好準備,而非等到上台前。
林懷民:平常我們常用「畫妝」來進入一個角色,或者「暖身」,甚至有人要「打坐」,您完全沒有這類的儀式嗎?
大野一雄:(很肯定地) 對,我從來沒有準備過。
大野慶人:家父很強調這一點,他總是上台就很自然的演出了。他認為在表演的當下只要「忠實」自己就行了,他也的確可以達到此種境界。
我自己則在剛站上舞台時想像我正面對著許多過世的人,並向他們行禮。我們認為自己背負著前人的智慧、傳統,沒有那些逝去的人,就沒有我們。
林懷民:許多民族在跳舞前也有向祖先祈禱的儀式,表示對死者的敬重。請問和亡魂的親密關係,和對死者的敬重是屬於先生個人的哲學呢,還是日本文化中本有的特色?
大野慶人:父親的徘歌老師曾告訴他:「人是由傳統累積而成的,既然從前人那裡接受東西,就該對他們常存有感激之心。」他也總是記得這件事。
日本人有個紀念死者的「盂蘭節」在每年的七月十四到十六舉行。在這三天中,人們把已去世的亡魂接回家中來,並把他們生前愛吃的、愛看的都一一擺出來。在日本文化中,活著的人和死去的人本來就有著極親近的關係。
林懷民:這就是我們農曆七月十五的中元節吧。

          花的美麗,就是生命的美麗

薩爾‧穆吉揚托:我非常羨慕您們父子倆可以一起到世界各地旅行,同台演出。我也想請教大野慶人先生三個問題。第一是您和父親跳了這麼久的舞,您從父親那裡學到了什麼?第二是爸爸教了您什麼?第三,您為什麼要跳舞,而且還隨爸爸走上舞踏表演者的生涯?
大野慶人:童年時我曾隨土方巽先生習舞,若不是土方先生的引導,我也許不會走上舞台,成為舞者。
至於我從父親那裡學到什麼?這我不敢說,因為總覺得沒完全做到父親的要求,仍沒辦法完全的專注,心境還是會受到周遭事物的影響,必須再花上幾年的歲月才能略有領會罷。記得父親曾要求我模擬花的心境跳舞,當時我很生氣,心中暗想如果我能跳好一朵花,那末,我不如就做一朵花好了,何必來跳舞呢?質到七年前,我生了一場大病。在養病那段日子中,我突然頓悟了,原來父親說的花的美麗,其實指的是生命的美麗。
薩爾‧穆吉揚托:這使我想起下午大野父子在藝術學院給學生上的課。大野一雄先生告訴學生跳舞不要只重視外形,應把注意力轉到內心的感受上,對學生相當地有啟發性。前天晚上,兩位先生半即興的演出,有著很強的表達力量,相當地憾人,可以請問您是如何做到的嗎?
大野一雄:我在一九二九年曾於東京帝國劇場觀賞被稱為「西班牙之女La Argentina」的舞蹈家Antonia Mercé的演出。她是一位很認真工作的人。她的表演觸動了我獻身舞蹈的想法,也給我非常深遠的影響。我無法忘懷她跳舞的樣子,即使是現在,當我站上舞台時,她彷彿仍站在那兒對我說:「來吧!來吧!和我一起跳舞!」
我以為生命的誕生必伴隨著死亡,生和死是共存的。就好像嬰兒在母胎中時是靠著胎盤經由母親提供養分,母親以血肉之軀供養幼兒,幼兒每成長一寸,母親的生命力,生命期就消耗一尺。死而後生、週而復始,這是宇宙亙久不變的真理。

          對母親深深的依戀

我的舞蹈也和母親有深刻的關係。小時候我是個非常任性的孩子,常吵著母親買這買那,但很多時候並非因為我喜歡那樣東西,只是想藉此引起母親注意,渴望和母親合為一體。母親辭世後,我常惡夢連連,夢見母親變成一隻毛毛蟲,全身毛茸茸的,目光炯炯有神,醒過來後,看到別人的手指頭還會誤以為是母親顯靈呢!我後悔以往太過任性,如果孝順一些,也許今日就不會有夢見母親變成毛毛蟲的可怕下場了。但若不是我的驕縱任性,對母親的感念也就不會這麼刻骨銘心吧!
我清楚記得母親在家中走動、吃飯、坐在角落裡補衣的種種情景。我在舞台上假扮她,想進入她的靈魂。她現在在夢什麼、想什麼呢?我相信死去的人也作夢。

對談圖8

林懷民:從一九六七年到一九七六年,您有七年的時間完全沒有出現在舞台上,請問那些年您在做什麼呢?
大野慶人:家父在那段時間拍了三部關於他自己的電影,分別為《O氏的肖像》、《O氏之曼陀羅—遊行夢華》、《O氏的死者之書》。這些影片沒有情節性的敘述結構,而是由詩意且富有超現實意味的畫面所組成。
林懷民:一九八0年在海外成名之前,您完全沒有政府補助,請問那時您靠什麼過日子?
大野一雄:年輕時我擔任高中女校的體育教師,並以此收入來維持舞蹈創作。
林懷民:可否描述令尊成名前的情景?
大野慶人:舞踏本是一種地下的活動,不受政府的鼓勵。許多反體制的人很關心這樣的藝術活動,這些觀眾是支持我們表演的力量。家父在一九五九年開始舉行「舞踏發表會」,在戰後不久的當時這被認為是非常奢侈的活動,要課百分之一百五十的稅,往往票房越好,我們家財賠進去的也就更多。有一回我向母親借錢,母親告訴我家中的錢因為父親的舞蹈,已經揮霍光了。
林懷民:您被稱為「舞踏之父」,您是否在乎您所跳的是不是「舞踏」呢?
大野一雄:我被稱為「舞踏之父」或許是因為年紀的關係吧!但不管是「現代舞」還是「舞踏」,重要是你是否不斷地累積經驗。隨著歲月,肉體日漸衰弱,甚至死去,精神卻會不斷往上提昇,即使死去,我的精神仍將繼續跳下去。
林懷民:對日本其他的舞踏團體您有什麼看法嗎?
大野一雄:如果勉強要說,就是太「系統化」或「定型化」了些。許多人都把舞踏當成一種技巧來學習,違背了舞踏的創始精神:打破特定舞蹈技巧規範,讓身體自由的表達自己。

          和著童年聽過的音樂起舞

薩爾‧穆吉揚托:我覺得在您的舞蹈裡面經常有著長時間的靜止,是非常有力、簡潔的表達。另外一個我覺得非常好而印象深刻的是您對音樂的詮釋,不管是現代機器做出來的音樂,或是古典音樂,它們彼此的結合或和舞蹈的結合都非常的自然,好到已使人忘掉音樂是東方的還是西方的、古代的或今天的。我的問題是您本來就喜歡這些音樂嗎?您舞作的靈感是否取自這些音樂?想請教您的舞蹈和音樂的關係。
大野一雄:我總是特別去找出童年時代聽過的音樂。因為那些音樂已進入我的身體和細胞中,所以我在使用這些音樂時一點都不會覺得不自然。並非先有音樂,然後有舞蹈。而是先有舞蹈,然後再去找出我小時候聽過的音樂。
我成長於日本北海道的函館。初中一年級的時候,我剛好有機會去聽貝多芬、蕭邦等人的音樂。在街上則可以聽到三味弦的演奏,我擷取在日常生活裡聽到的東西,並不理會是外國的還是日本的音樂。有一回,正好碰上有歌舞伎到含館來演出,我也清楚的記得曾經走到後台,仔細窺視歌舞伎藝人們的世界。我也曾被老婦人牽著手,帶到廟裡去玩,聽人念誦佛經。這些都是我跳舞音樂的泉源。
大野慶人:今天下午在和學生一起上刻的時候,我可以很深刻的感受到她們的東方氣質。
什麼是東方的氣質呢?正如這些掛在我們四周牆壁上的水墨花卉吧,不論是花還是樹木,都給人一種非常脆弱、纖細的感覺,但它們卻支撐到最後才會屈服。這種強韌的生命力,一定撐到最後一秒才枯盡的精神,正是東方和西方大不相同的地方。
林懷民:我想這和文化與生活都有關係。藝術和生活一體是東方很重要的傳統。今天我們穿著牛仔褲、吃漢堡,但身體裡面仍然有著一點那樣的東方。我上課常常跟同學講:「不要再學跳舞」或者「不要再學編舞了,那學不來,去生活。」在看過大野先生的演出和演講後,也許我該說讓我們「認真地」去生活。兩位先生的拜訪給了我們這樣的啟示和肯定。我想在此特別的謝謝您們。

對談圖5

摘錄:「睡蓮」[大野一雄的舞踏譜]

※引自“表演藝術雜誌” (1994,7)

我正徘徊於歌劇《托斯卡》的場景,一座老舊的羅馬城堡周圍。在享受了圍繞城牆的花園美景後,彷彿有人說:「該是你離去的時候了!」我很高興我來了,雖然當我走過面前的橋時,遺憾之意纏繞於心。在那兒我是第一次看到羅馬的河流,即使在羅馬也有河流!在此之前,我已看過無數的建築,但是不知何故,我從未注意到任何的河流。
水草輕柔地在橋底緩緩漩流的水中搖擺。橋的扶欄似乎是用大理石做的,手扶著其上,拾級而下,我緩緩地靠近河邊。《托斯卡》的音樂在耳邊迴響著,在我內心深處,我能聽見那已屆遲暮的前歌劇演唱家的嗓音。我記起了在丹尼爾‧史密特的電影《托斯卡之吻》中,她是如何突然地在維瓦第的迴廊上即席高歌。在那一刻,我決定以莫內的〈睡蓮〉為主題來創作舞踏。
莫內曾寫道:「在池底搖曳的水草景象實在是太美妙了,但當我試著摹畫它們,卻令我感到挫敗。我蒼老的手指不再能駕馭景象。然而我仍瘋狂地渴望能找到方法清晰地表達我感受到的生命力。」
莫內畫一系列蓮花池的習作時,視力微弱。這些畫是他企圖克服一個幾乎不可能的挑戰之存證。受到莫內的鼓舞,我決定以我所有的經驗作為草稿,創造一個從美之中浮現的透明、真實與虛幻的世界。
藉著莫內的幫助,我將從模型中解放出來,並且找到位於地球與宇宙的所在地的,那是睡蓮。

睡蓮圖1

一個女人正漂浮在哈雷彗星裡,悠遊於無際的宇宙中。
出現於天與地之間的這個女人,一定是聖母瑪麗亞。
負載著死者迷惑的船隻,似乎以懷有愛的死者之速度移動。
聖母頌:「為來自羅恩家族的聖母瑪麗亞哀悼吧!」
瑪麗亞的手永遠渴望著倒在血泊中瘦弱的基督。
瑪麗亞的淚痕已褪,她的手臂了無生氣地垂下。
超現實和真實的世界相重疊。真實與表象的世界是合一的嗎?
我相信哈雷彗星一定是約瑟夫–瑪麗亞的丈夫。
我瞥見,半人半馬獸在空中漫遊。

花朵是嬰兒,青年還是老人?花朵在無知中盛開又凋謝。花開花謝是在幻覺的世界中,或是在死者的世界裡?這是真實嗎?亦或是每件事交纏且重疊?我相信任何解釋都是真的。
植物在瘋狂中茂盛,而我希望人們的愛怒放在永恆中。孩童象徵著創造及永恆的愛。

「胎兒持續獨力創造著天堂,即使在其死後。
人們無法透過心靈來接觸,唯有藉由重生。」
白石和子

睡蓮圖2

莫內在他的蓮花池上建了一座日本橋。一八九九年後,莫內畫作的主題就是這座日本拱橋。甚至當他創作將在橘郡展出的大幅壁畫時,仍然持續地畫橋。我很想知道,當這座在他私有花園中的橋終於完工時,莫內的感受為何。我懷疑他會因過度興奮,以致幾乎難以過橋。
河水緩流。在幾乎停滯的移動中,生與死合而為一。
莫內有一張與友人佇立橋上的合照。當我在身心放鬆時凝視這張照片,它彷彿比只有池水和睡蓮的照片還美。
池水和睡蓮呈現了宇宙之美的內涵。我縮小視野,這座橋起初似乎是在美的邊緣,然後變得越來越接近本質,直到觸及某些內在的真實。
莫內曾向其友人解釋一幅睡蓮環生的壁畫(最後在橘郡展示的畫作)時說:「它提供了一個在花池中心可以靜心冥想的庇護所。」
宇宙之橋畫成一個弧形。我夢想有個新生兒,充滿著純真和謙遜,走過那生命孕育宇宙之所在的橋。
這也就是我要一件件地卸下戲服,且小心地將他們散放在地上的原因。當這動作進行時,我感覺到我正將皮與肉層層剝離,並將自己包裹在身軀所在的宇宙中──這就是舞踏的服裝。

睡蓮圖3
睡蓮圖4

「來自天堂的死者靈魂,
從寶池中盛開的睡蓮之後,
凝視這喜悅無窮的奇妙景象。」
大岡信〈應時小詩〉

花是如此地喜歡死者,而死者又是多麼喜歡生氣盎然的花朵。我溫柔地看透畫的花瓣,在了解它之前,它的美已令我迷醉。在真實與表象的疊層裡,我向莫內高喊:「早安!」我愉悅的聲音彷彿漂浮在空中,盈滿整個花園。
我因花園之美而恍惚失神,突然發現自己身處於百花世界中。綻放的花朵,水中的蓓蕾、生命的花粉,擴散而充滿於空中、水中及泥土裡。他們的生命主旨似乎是痛苦和愛的融合。彷彿是當我傾身於花瓣時,我了解到我正在觸摸某物,那並非花朵。我的手猶如垂死者般地在空中掙扎,直到抓住了某人拖曳的和服,寬腰帶全解開了。這是一個奇怪、非自然的感覺。拖曳和服上的褶痕,變成我心的褶痕。摺痕活起來了。而和服如水蛭般從我的手爬行至肩,覆蓋了全身。寬腰帶也蹣跚地跟隨著匍匐爬行。在莫內優美的花園裡,我見到了過去從未經歷過的事物:天堂與地獄、真實與虛幻、瘋狂與瘋子、愛與痛苦俱在的旋轉漩渦。
我裸身迷惑地站在舞台上。水蛭依舊在我掌中。它,來自寶池嗎?
享受著手沿著大理石欄杆滑下的喜悅,慢慢地,慢慢地,我來到了羅馬的河邊。我之所以清楚地記得是因水草之美誘惑著我、激動著我。
蹲下後,我想起了手中的水蛭。或許它並不是包裹我驅體與靈魂的和服──它可能是花嗎?或者是死者的靈魂?

睡蓮圖5

「在紀梵尼的莫內花園中的蓮花池,
並不僅是莫內晚年的慰藉,
也是他最後的動機與主題,
以及對他藝術天份最終的挑戰。
當他領悟到水的表面有三層:
真實、表象與透明,
他最終的探險便開始了。」
峰村俊明

我沿著池邊走,渴望祝某人早安。但首先我想要試著畫一幅存在的自畫像,一幅每個人存在的自畫像,之後我要使這圖像出走。我確定這是唯一的方法,使我能了解我欲道早安的渴望。我開始畫。忽然,我注意到是我的素描開始畫我,與我爭執的素描正在攫取我的靈魂。是誰正在畫誰呢?我不再能分辨。既然我相信莫內的睡蓮花園是他的自畫像,或許有一天我能遇見他。我很樂意向莫內隱退的身影高聲祝賀。我必須抑制我狂亂跳動的心。
在宇宙的子宮中的吻。

摘錄:「死海」 [大野一雄的舞踏譜]

※引自“表演藝術雜誌” (1994,7)

我感覺被壓碎了。欲哭、欲玩、欲生、欲死。我以為「靈魂之形體」是一混濁未明之物,無法區分。

號角再度響起:許多小動物在山間疾奔;一位中年女子走向死亡。在某方面兩者重疊,成為環繞死者的群山。他們都自母親的子宮獲得生命,且自然地親近彼此。似乎動物對永遠瀕臨死亡的女人有著迷亂的愛。我必須拉起我的裙子來回應他們。

絲毫無法幫忙創造天與地,我背朝下伸腳朝天倒立。

我想像眾鬼魂如氾濫的花朵從久遭棄置的堡壘中流瀉而出。當我在歐洲隨此音樂起舞時,感到有奇異的靈魂在注視著我──但在恐懼中我同時看到美與光輝瞬間綻現。

死海

‘魂魄’ ‘暗黑’ [摘譯自"Hijikata Tatsumi and Ohno Kazuo"]

※引自“Hijikata Tatsumi and Ohno Kazuo” (2006 : 頁59-60)

靈性的黑暗:進入大野一雄的
排練場與“魂魄”裡

中嶋夏,舞踏的女性創始者之一,於1997年在台北的輔仁大學進行了一場重要的演說,針對土方巽和大野一雄作品裡靈性的黑暗以及它的女性基礎,作出日本佛教觀點的詮釋,雖然這些舞者並非真的是在任何宗教傳統範圍內工作。她帶我們進到大野一雄的排練場裡,以及他在工作坊中所用的字“魂魄”。她說很多外國人來到大野一雄的排練場,而他會給他們一些詞彙用來舞蹈。例如,“舞在天堂裡。舞在地獄裡。舞在心裡。” 中嶋說,大多數人能做得到並且感覺這很不錯。但是當大野先生說舞在“魂魄”裡時,突然間他們就不知如何動作了。“魂魄”是個連日本人也都遺忘並且感覺陌生訝異的字眼。它描述著亡者與生者於河岸之間往返,平平靜靜地。中嶋特別指出日本人所用的一些佛教詞彙,像是“彼岸”—遠方亡者世界那邊的河岸,以及“此岸”—此處生者世界這邊的河岸。在“魂魄”裡亡者一年數次往返,渡河回到他們祖先的居處。那並不是一個地方,而是“不在那裡的任何地方。”她說我們可將這稱為黑暗,靈性,無形之物,無意識,或者那已滅去並消失的。這是某種無法被見到的東西—某種大野一雄認出它是“魂魄”,而土方巽稱作“暗黑”與“闇”(幽暗)—透露出反差及非理性(中嶋 1997)。

SPIRITUAL DARKNESS: INSIDE OHNO’S
STUDIO AND KONPAKU

Nakajima Natsu, one of the female founders of butoh, gave a pivotal speech at Fu Jen University in Taipei in 1997 explaining a Japanese Buddhist perspective of spiritual darkness in the work of Hijikata and Ohno and its feminine basis, even though these dancers were not working literally within any religious tradition. She takes us inside Ohno Kazuo’s studio and his workshop word Konpaku. She says that many foreigners come to Ohno Kazuo’s studio, and he gives them a phrase to dance on. For example, “Dance in the heavens. Dance in hell. Dance in the heart.” Most people can do this and feel good about it, Nakajima says. But when Ohno says dance in konpaku, all of a sudden they don’t know how to move. Konpaku is a word that even the Japanese have forgotten and would be startled by. It describes the riverbanks where the dead and the living come and go, very much at peace. Nakajima emphasizes that the Japanese use Buddhist terms like higan — the far side of the riverbank for the world of the dead, and shigan — the near side of the riverbank for the world of the living. Konpaku is where the dead come and go several times a year crossing the river to their homes. It is not a place, but “nowhere out there.” She says we can call this darkness, spirituality, something formless, the unconscious, or the destroyed and disappeared. This is something that cannot be seen — something that Ohno identified as Konpaku and Hijikata called ankoku and yami (shadowy darkness) — emanating contradiction and irrationality (Nakajima 1997).

へそと原爆






《肚臍與原爆》

 導演:細江英公
 編舞:土方巽
 演出:土方巽 大野慶人(兩位男性身體)
 時間:1960 (“禁色”初演為1959, 表演者亦是土方巽和大野慶人) 


在這影片裡我們可以看到原子彈爆炸的真實畫面,也見到了“身體”處在多種動盪以致爆裂的狀態。然而,除了殘酷與壓迫,能承受進而洞悉者會感受到一種幽默,一種清新。而這並不屬於舞踏通常被預期的質地,解開了作品自身訊息與形式的沉重負荷,卻在藝術和意識層面上更為提升───尤其是與之後標舉土方巽的各種暗黑舞踏作品相較。
桑雅劇場所重視的舞踏是包括此影片在內所指向的舞踏源頭,以及從中演變出來的舞踏第三脈絡。


影片來源:http://youtu.be/lbhK_De9JBw


大野慶人 ‘ 空 ’—2007年10月27日 紐約日本協會 [ 演出報導 ]

 大野慶人

作者  Juliet Neidish

2007年10月27日 — 紐約日本協會,紐約市

© Hideyo Tanaka Pictured: Yoshito Ohno

我很榮幸能在日本協會的觀眾席見到大野慶人演出他的獨舞“空”。這是從10月一直到11月在這一帶幾個場地所舉行的紐約雙年舞踏節裡非常特別的一部份。今年的舞踏節是向偉大的,影響深遠的舞踏大師大野一雄的101歲生日致敬。

大野慶人,他的兒子,為了他已得阿兹海默症的父親編排了這段獻上敬意的舞蹈。大野一雄是在70幾歲時成名於世,並且直到90幾歲依舊沒有困難地上台表演。慶人,現在也將近70,除了自己的演出也時常與他的父親一起巡迴。

日本協會,很美的一座展場/劇院,是個十分適合進行這活動的空間。一進入劇院,看得到的舞台部分全都覆蓋成白色。慶人背向觀眾站在距舞台中央僅左邊一些的位置,低著頭,穿著米色西裝和休閒褲。他一動也不動地以那姿勢站立著,直到所有的觀眾都已入席。事實上,在整首開場的巴哈賦格音樂中他一直都是不動的。雖然慶人自己是在靜止,然而他似乎已安排好讓音樂的音量在強弱間變化並揉合出某種軌跡。這是相當有力且令人振奮的開場,同時完全沒有任何身體動作。之後風的聲音響起了,慶人慢慢地開始舞蹈。

這齣舞蹈的身體是種記憶的探索。節目單上有句話:“我決定以‘空’來表達我的信念,那就是我的生命是許許多多人所給予的,或者應該說,來自於我周遭的每一個人。”舞作的不同段落分別產生出不同的情緒或感受,例如嬉戲,驚奇,掙扎,與沉思。這些是藉由他的出場和再進場而勾勒出整體輪廓,有時也會在服裝造型上出現些改變,或者是新的聲音或配樂。舞步動作本身是簡單清晰的。它們是在一種十分慎重的專注和堅韌下所完成,不過偶爾也會出乎意料地因為一個離地的跳躍或欣喜若狂的飛奔而添增色彩。

這齣舞蹈有種很強的致敬意味,包括特別提到一些過去他曾與他的父親共同演出的作品。雖然在‘空’裡慶人是唯一的舞者,然而這作品並不僅僅是為了獨舞者,大野慶人,而作的。相反地,它很明顯的是關於與他人連繫著的慶人,尤其是與那些此刻並不在場之人。他非常用心地投入在一張面紙上,因此與這輕飄飄如空氣般的存在作出了一段不同凡響的雙人舞。他將它摺成一頂小小的帽子,讓他那剃得光光的頭得到它的保護。他對它微笑,充滿情感地展示它,甚至當它已掉到他寬寬的褲腳底下時,他還可以完好如初地將它重拾起來。

慶人的創意使他能延續與他父親共享舞台的這種原本形式。透過幻燈投影的運用,慶人讓觀眾見到很寫實且赤裸裸的照片,那是十分年邁,身體已乾癟的大野一雄,平靜地熟睡著。其中包括慶人在看著或溫柔地輕撫著他的父親。而在結尾段落,他熟練地操弄著手上的小人偶,它的白髮和長臉孔讓人覺得像是看見他的父親。這人偶是非常精巧的小小人形,有雙非常具有表現力的小手,而且因為這段共舞是同步投影在上方的螢幕,所以觀眾都能清楚看到它們。我們見證了慶人在他與人偶互通心意的過程中所傳達出的極度輕柔和深刻情感,心中因而留下的是一種鮮明的脆弱感。這段的結束是慶人短短的一聲“謝謝”–那是個令人意外的片刻,破除了這場魔法般的演出所下的咒語。抱著一束束花朵向觀眾致意,他的鞠躬謝幕是真誠的,活潑的,且優雅的。

演出之後是日本協會所主持獻給大野一雄的舞踏生日宴會。只要持有先前大野系列表演票券的人都歡迎參加。現場有茶點,氣球,遊戲,音樂,以及表演者在整個展場裡的即興演出。

  Yoshito Ohno – ‘Kuu (Emptiness)’

  by Juliet Neidish

October 27, 2007 — Japan Society, New York, NY

It was a privilege being in the audience at Japan Society to see Yoshito Ohno perform his solo “Kuu (Emptiness).”  This was a very special part of the biennial New York Butoh Festival that takes place in several venues here throughout October and November.  This year’s festival honors the great, seminal butoh master Kazuo Ohno’s 101st birthday.  Yoshito Ohno, his son, choreographed this homage to his father who is ill with Alzheimer’s disease.  Kazuo Ohno became world famous while in his 70s, and performed well into his 90s.  Yoshito, now himself, almost 70, performed and often toured with his father.

The Japan Society, a beautiful gallery/theater, was a wonderful setting for this event.  Upon entering the theater, the revealed stage was masked in white. Yoshito stood with his back to the audience just left of center, with head bowed, dressed in a cream-colored suit and slacks.  He stood motionless in that pose until all audience members were seated.  In fact, he remained motionless throughout the entire Bach fugue that opened the piece.  Although Yoshito was in stasis, he seemed to have choreographed the music whose volume was a pathway that fused its way between high sound and low.  This was a powerful and invigorating beginning accomplished with no body movement at all.  Then to the sound of wind blowing, Yoshito slowly began to dance.

The body of the piece was an exploration of memory.  A sentence from the program notes: “I decided on ‘Kuu’ to express my belief that I have been given life by many people, or rather, by everyone around me.”   Different sections of the piece rendered different feelings or sensations such as playfulness, wonderment, struggle and reflection.  They were delineated by his exiting and reentering, sometimes with a slight costume change or with a new sound or musical accompaniment.  The steps and movements themselves were clear and simple.  They were executed with a deliberate concentration and tenacity, colored occasionally and surprisingly with an airy jump or ecstatic skitter.

There was a sense of great deference in this piece, which included specific references to works he had performed in the past with his father. Although Yoshito was the sole dancer in “Kuu,” the piece was not a vehicle for Yoshito Ohno, the soloist.  Rather, it was clearly about Yoshito in relation to others, and particularly those now absent. He did a remarkably delicate pas de deux with a tissue with great care in tending to this ethereal presence.  He folded it into a tiny hat to protect his shaved head.  He smiled at it, showed it off lovingly, and even when it disappeared under the wide bottom of his pant leg, he was able to recover it without damage.

Yoshito’s inventiveness enabled him to continue the tradition of sharing the stage with his father. Through the use of slide projection, Yoshito showed the audience stark, realistic photos of the very old and wizened Kazuo sleeping peacefully.  Some included Yoshito watching or tenderly caressing his father.  And in the final section, he manipulated a small hand held puppet whose white hair and long face bore a resemblance to his father.  The puppet was a very delicate little figure with extremely expressive, tiny hands, which the audience was able to see because the duet was simultaneously being projected on a screen above.  We were witness to the great gentleness and affection that Yoshito transmitted in his communication with the puppet, thus leaving us with a vivid sensation of vulnerability.  The piece came to an end with Yoshito’s tiny utterance of “thank you”–a surprising moment that broke the spell of magical performance.  Greeted with bouquets of flowers, his bows were authentic, playful and gracious.

A butoh birthday party for Kazuo Ohno hosted by Japan Society followed the performance.  All ticket holders from previous performances in the Ohno series were invited.  There were refreshments, balloons, games, music and performers improvising throughout the gallery.

  quoted from:  http://www.ballet-dance.com/200712/articles/Ohno20071027.html